ストライカーなんて、対戦相手やそのサポーターに嫌われてこそなんぼだ。誰もが嫌がる数字の「13」を不敵に背負って、相手チームを絶望の淵に陥れてやる。――今回はそんな、かつて世界を席巻して、今でも日本代表に待望久しい危険な点取り屋のお話!
■Jリーグで背番号13と言えば
先日、あるところで柳沢敦さんと話す機会があった。といっても「Zoom」のなかでの話だが……。出席者20人ほど、1時間半もの「Zoomミーティング」のなかで、自分の発言のとき以外、柳沢さんはじっと画面を見て、微動だにしなかった。まるで時代劇に出てくる武芸に秀でた武士のようで、「一流のストライカーの集中力とはこうしたものか」と、驚きつつ感心した。以下、「さん」を省略して書かせてもらう。
柳沢敦といえば「背番号13」である。鹿島アントラーズからイタリアに渡って2クラブでプレーし、再び鹿島でプレーしてから京都サンガ、ベガルタ仙台と、プロとして通算19シーズンプレーし、J1でプレーした全17シーズンでゴールを記録した名ストライカーは、その現役時代の大半を「背番号13」で過ごした。日本代表でも、日本の歴史的な「ワールドカップ初勝利」となった2002年大会のロシア戦で、中田浩二のパスを受けてワンタッチの鋭いパスを稲本潤一の足元に送り込んで決勝点のアシストをした柳沢の背中には「13」の文字があった。
柳沢がなぜ「背番号13」をつけるようになったのか、いろいろ調べたのだがわからなかった。しかし彼のJリーグデビューは、実は「11番」だった。1996年、「超高校級ストライカー」として注目され、彼は「13クラブ」からオファーを受けた。1995年のJリーグは14クラブで、1996年も16だったから、リーグのほぼ全クラブから誘われたことになる。公式戦デビューは6月8日のナビスコ杯アビスパ福岡戦。後半18分に増田忠俊に代わってピッチにはいったが、背番号は15だった。12日の同大会福岡戦では後半開始からピッチにはいり、わずか3分で先制ゴールを決めている。このときも背番号は15だった。
そして8月28日、リーグの後半戦スタートとともにJリーグデビューの日がくる。ホームでのジェフ市原戦、彼は右MFとして先発し、後半15分までプレーした。背中には「11」がついていた。Jリーグは当時の欧州の主要リーグにならい、先発選手が1番から11番をつけてプレーしなければならないことになっていたのだ。「固定番号制」になった翌1997年のシーズンから、柳沢はいつも「背番号13」とともにプレーするようになる。