大住良之の「この世界のコーナーエリアから」第180回「51年前の寒くて熱かった冬」(2)「日本人は白人よりも個人技がうまくなれるはず」外科医コーチの言葉を証明した関西の天才少年の画像
天才・宇佐美貴史よりも前に、「日本サッカーの希望の光」となる天才少年が大阪にいた。撮影/原壮史(Sony α1使用)

 サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト大住良之による、重箱の隅をつつくような、「超マニアックコラム」。今回は、忙しかった正月の記憶。

■驚きの才能を育てた「外科医」

 1975年は、そんな正月であり、冬だった。そして1日休むと、私は、フリーランスカメラマンの今井恭司さんと取材の旅に出た。

 主目的はJSLの入れ替え戦だった。カードは「永大産業(1部9位)×富士通(2部2位、現在の川崎フロンターレ)」、そして「トヨタ自工(1部10位、現在の名古屋グランパスの前身)×読売サッカークラブ(2部優勝、現在の東京ヴェルディ)」。初戦は1部ホーム、第2戦は2部ホームとされた。そして永大のホーム、山口県の平生(ひらお)町で1月12日(日)、トヨタ自工のホーム、愛知県のトヨタスポーツセンターで翌13日(月)にそれぞれのカードの第1戦が行われることになった。その2試合の取材が、私と今井さんの取材旅行の主要なテーマだった。

 しかし2試合の取材の前に、私は大阪の枚方(ひらかた)市で近江達(おうみ・すすむ)さんの取材を入れることにした。近江さんは神戸で生まれ育ってサッカーに親しみ、京都大学で選手として活躍した人だった。賀川浩さんによれば、なかなかの名手だったという。枚方市の病院に外科医として勤務しながら、地元香里団地の少年たちにサッカーを教えるようになり、1973年に枚方サッカークラブを設立。またたく間に全国のサッカー指導者たちが驚く、才能あふれる少年たちを育てた。

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