■30万人が押しかけた「伝説の試合」
オフサイドを「2人制」にすべきという議論は、ずいぶん早い時期からなされてきた。サッカーのルール改正は当初「ご本家」のFA(イングランド・サッカー協会)の独占物だったが、1886年にスコットランド、ウェールズ、アイルランドの3協会が加わる形で国際サッカー評議会(IFAB)が結成され、ルール改正はすべてここで扱うことになった。
スコットランド・サッカー協会(SFA)が「2人制オフサイド」の提案をしたのは、そのわずか8年後、1894年のことだった。だがイングランド北西部、湖水地方の風光明媚なウインダミア湖を望む「フェリー・ホテル」でのIFAB年次総会で、この案はあっさりと否決された。
あきらめきれないSFAは、1902年、1913年、1914年と提案を繰り返したが、そのたびに否決された。一貫して反対したのは、FA(イングランド・サッカー協会)だった。第一次大戦終了後も、SFAは1922年、1923年、1924年と執拗に「2人制オフサイド」を提案したが、ここでもFAの反対でつぶされた。
このころ、イングランドのプロサッカーはひとつの隆盛期を迎えていた。第一次世界大戦前には、「フットボールリーグ」は1部20クラブ、2部20クラブの計40クラブで開催されていたが、戦後のサッカー熱のなかでの再開1シーズン目の1919/20シーズンには1、2部とも22クラブとなり、翌1920/21シーズンには3部22クラブが加わった。さらに次の1921/22シーズンには3部が「南北」に別れて計42クラブになり、総計すると86クラブと、急速に発展したのである。
さらに、1923年にはロンドンにウェンブリー・スタジアムが完成。FAカップ決勝やイングランド代表の「ホーム」となった。その最初の試合、1923年FAカップ決勝では、このスタジアムをひと目見ようと30万人もの観衆が押しかけ、ピッチのすぐ外にまで観客を入れて開催するという伝説の試合(ホワイトホース・ファイナル)も生まれて、サッカーは完全に英国最大の娯楽となっていた。