■スタジアム最上部で託された「一通の手紙」

 取材が終盤に近づいたある日、バチューさんは私をスタジアムの観客席の最上部に誘った。その日、ステアウアは翌日に試合が行われるスタジアムのピッチでトレーニングをしていた。観客席の最上部は、「盗聴」の恐れがない数少ない場所だった。

 並んで腰を下ろすと、彼は体に隠すように1通の手紙を私のポケットに押し込んだ。何かと聞くと、キューバのレスリング連盟への手紙だという。キューバの連盟が彼をコーチとして招聘してくれたら、彼は家族とともに生活の不安と恐怖に満ちたこのブカレストを離れ、同じ共産圏の国でも気候が良く、生活が楽なキューバで暮らすことができるというのである。

 もちろん私は快諾し、日本に帰ってからキューバまでの航空便の切手を貼って投函した。しかし、その後どうなったのか、確かめるすべはなかった。まともに手紙で問い合わせれば、検閲に引っ掛かって彼が罪に問われるかもしれない。彼から何の連絡もないということは、「キューバへの脱出」は成功しなかったのだろうと、暗澹たる気持ちになった。もちろん彼は、トヨタカップのデレゲーション(代表団)には含まれていなかった。

  1. 1
  2. 2
  3. 3
  4. 4