■破天荒な「でっちあげ」計画
太田さんの「アルゼンチン便り」の記事を見た橋本さんは、「ふ~ん」と言っただけだった。関心を持った様子もなかった。だが彼の頭脳は、その瞬間からフル回転していたようだ。この年末年始は、高校選手権が関西から首都圏に移ったときで、『サッカー・マガジン』は総力を挙げて取材、特集号の編集作業に忙殺された。そして、その忙しさが一段落した頃、彼は原稿用紙の裏に走り書きしたメモを見せた。
「大住、これをやろう」
そこには、5冊の別冊発行計画が書かれていた。1974年の西ドイツ大会で、『サッカー・マガジン』は3冊の「別冊」あるいは「増刊」を発行していた。年初めに全出場チームを網羅した「プレビュー号」を出し、大会直後に「速報号」さらに秋には「豪華写真集」という構成だった。それを5冊に強化し、判型もそろえて、ひとつのシリーズにするというのだ。大会1年前の1977年夏に「南米サッカー紹介号」、そして1978年の年末には連続写真で構成する大会の「技術総括号」を発行しようという、当時としては破天荒な計画だった。
ワールドカップの出張予算は通るだろう。だが1年前の「事前取材」など、小さな出版社、しかも海外出張など例外中の例外だった会社が認めるわけがない。そこで5冊一体の出版計画を「でっち上げ」(当時の私にはそうとしか考えられなかった)、「事前取材」の経費を5冊の編集費の一部として捻出しようというものだった。
私はうなった。そして、その瞬間、私にとって初めての南米取材が決まったのである。橋本さんは前年の「香港出張(アジアカップ予選、カメラマンの今井恭司さんと2人で派遣された)」で味をしめた「パンナム・バーター」を巧みに使った。当時世界最大の航空会社だったアメリカの「パンアメリカン航空」の広告を何回か『サッカー・マガジン』に掲載する見返りとして、航空券を提供してもらったのだ。