■流れるようなパス交換への進化

 中条さんは朝日新聞の記者ではあったが、日本蹴球協会(現在の公益財団法人日本サッカー協会)の1960年欧州遠征選手団の正式メンバーだった。役割は「主務」。「選手団」と言っても、選手19人のほか、スタッフは、竹腰重丸団長、高橋監督、そして中条さんの3人だけ。総勢22人という小所帯である。

 当時の日本蹴球協会にはまったく資金がなかった。1964年の東京オリンピックの選手強化費が日本体育協会から支給されたものの、遠征費の半額は選手の個人負担(選手は所属企業や大学で寄付してもらって工面した)であり、広島出身で東京大学のセンターフォワードとして鳴らした中条さんの費用は朝日新聞が負担する形で「主務」を務めてもらい、細々とした仕事をしてもらったのだ。

 岡野さんはこの遠征には帯同しておらず、クラマーさんに初めて会ったのはこの年の10月、初来日したクラマーさんを羽田空港で出迎えたときだった。当時日本蹴球協会の若手役員だったが、ドイツ語が堪能なことから、クラマーさんの通訳兼世話役を命じられたのである。

 このような経緯を見ると、「チョップ・チョップ」か「シュープ・シュープ」かは、現場にいた中条さんに分がありそうだが、どちらにしても、当時の日本代表のパスが3本とつながらなかったのは間違いない。

 その日本のサッカーが、63年後には、ドイツとのアウェーゲームで冨安健洋を起点に鎌田大地菅原由勢、と流れるようにパスをつなぎ、ドイツの守備を突破した菅原のクロスに合わせてゴール前に走り込んだ伊東純也が先制点を決めるようにまでなる。そのスタートが、このアーヘンのスタジアムにあったことは、まことに感慨深いのである。

(2)へ続く
PHOTO GALLERY ■住宅地の北側に残る、かつての「アルター・チボリ」のゴール裏スタンド跡
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