昇格請負人たちが成し遂げてきた「ストライカーづくり」や「選手も観客も楽しめるサッカー」【Jリーグを支えた「20年超え監督」たちの貢献】(2)の画像
人とチームを育てる監督が、Jリーグを支えてきた(写真はイメージです) 撮影:中地拓也

 Jリーグはことし、30周年を迎えた。さまざまな人が、それぞれの場所で仕事を果たしてきた結果である。サッカージャーナリスト・大住良之は今回、きらびやかではなくとも着実に結果を出し続けてきた3人の監督にスポットライトを当てた。

■先達からの影響

 大木武は現役引退後、母校である東京農大のコーチを務め、1993年、Jリーグがスタートした年に富士通を退職して清水エスパルスで育成のコーチとなった。小林伸二は1991年にマツダのコーチとなり、そのままでプロ体制のサンフレッチェとなったチームで育成のコーチを務めた。石崎信弘は1993年に現役引退後は1年間東芝の社業に専念したが、退職後、1995年にJリーグの下の全国リーグであった旧JFLのNEC山形(現在のモンテディオ山形)の監督となった。本来はコーチに就任するはずだったのだが、直前になって監督就任予定者が辞退したため、急きょ監督になったのだという。

 大木は清水エスパルスで監督を務めたオズワルド・アルディレス(清水監督1996~1998)とその後を継いだスティーブ・ペリマン(1999~2000)から大きな影響を受け、プレーしている選手たちもそれを見る観客も楽しめるサッカーを志向した。小林が指導者として大きな影響を受けたのは、国見高校の小嶺忠敏監督であり、マツダで指導を受けたハンス・オフトだった。石崎は県立広島工業高校の松田輝幸監督を指導者の手本にしているという。

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