■「結果」の陰での「成果」

 小林は2001年に広島を離れてJ2大分トリニータのサテライト監督となったが、6月にトップチームの石崎監督が成績不振で解任されると、代わって監督となり、2年目にJ2優勝を果たして2003年にJ1に昇格させた。しかしJ1では攻撃力が足りず、かろうじて残留はしたものの1年で退任を余儀なくされた。だが翌年7月にはJ1セレッソ大阪の監督に就任、2年目には優勝争いに加わらせた。ただ3年目、2006年の4月に解任された。

 その後、まだ地域リーグにいたV・ファーレン長崎アビスパ福岡のフロントを務めた後、2008年にモンテディオ山形の監督として現場に復帰、1年でJ1昇格に導いた。山形は3シーズンJ1で奮闘したが、2011年末にJ2降格が決定、小林は退任した。

 2012年、休むことなくJ2徳島ヴォルティスの監督に就任、2年目にJ1初昇格に導いた。徳島は1シーズンでJ2降格となり、小林はJ1再昇格を目指して2015年も指揮を執ったが、昇格を逃して退任。2016年はJ2に降格していた清水の監督に就任、1年でJ1に昇格させた。しかし2017年いっぱいで退任。そして2019年にはJ3のギラヴァンツ北九州の監督に就任、1年でJ2昇格を果たしたが、2021年末にJ3再降格が決定、小林は監督就任時から兼務していたスポーツダイレクター専任となった。

 小林がつくったJ2からJ1への昇格4回(4クラブ)は最多記録である。他にJ3からJ2への昇格も1回あり、「昇格請負人」と言われるゆえんである。その目標達成のために、守備をベースにしたチームづくりを得意としている。大分がJ1に初昇格した2003年の第2ステージ、15試合で失点16は16クラブ中最少だった。ただ同時に、得点はわずか7で、これも最少だった。

 その一方で、小林は「ストライカーづくり」という最も難しい仕事で大きく実績を残してきた。広島のコーチ時代には、後に「アジアの大砲」と呼ばれるFW高木琢也を個人練習で鍛え、大きな体を生かして相手をブロックしながらターンし、シュートを打つという高木の得意なスタイルをつくった。大分時代には高松大樹、山形では豊田陽平と、日本を代表する大型ストライカーを育てたのは、特筆されるべきことだ。

(3)へ続く
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