■香港へと乗り込む
1975年6月、私はまだ23歳である。『サッカー・マガジン』で働きはじめて3年目。ベースボール・マガジン社に正式入社してからは2年目だったが、この大会の取材で香港に行くという願ってもないチャンスをもらった。当時の会社には「海外出張」という制度がなかった。爪に灯をともすような編集予算で渡航費用を捻出することなど不可能だった。魔法のようにそれを実現させたのが、当時編集部のチーフだった橋本文夫さん(当時32歳)である。
橋本さんは前年、ワールドカップ西ドイツ大会の直前に、私に「2週間休暇をとって、ワールドカップに行く気はあるか」と提案してくれた人である。「ただし当面の旅費は自前」という条件ではあっても、夢のような話だった。その後も、橋本さんは、このアジアカップ予選を皮切りに、私を毎年海外取材に出してくれた。それは私のなかのサッカーの世界というもの広げるのに決定的な役割を果たした。「サッカージャーナリスト」という現在の私にとって、橋本さんは他を隔絶した恩人なのである。
橋本さんの「マジック」は、パンアメリカン航空(パンナム)との「バーター契約」だった。『サッカー・マガジン』にパンナムのカラー広告を載せる代わりに、私とカメラマンの今井恭司さんの東京-香港間の往復チケットを提供してもらおうというのである。パンナムにとっては『サッカー・マガジン』に広告を載せても何のメリットもない。しかしこちらはほぼただで2人分の香港往復航空券をもらえるのである。
というわけで、1975年6月、私は今井さんとともに生まれて初めて香港の土を踏んだ。今井さんは当時ちょうど30歳だった。どう手配したのか、橋本さんは、日本代表と同じホテルまでとってくれていた。「エクセルシオール」。2019年に解体されていまはオフィスビルになってしまったが、当時は香港で最新・最大の高層ホテルで、大会会場の香港スタジアム(当時は「ガバメント・スタジアム」のほうが通りがよかった)までほど近いだけでなく、私にとって生まれて初めての超豪華ホテルだった。