■重視されていなかった大会
香港は北緯22度。「北回帰線(23度26分22秒)」の南にあり、「熱帯モンスーン気候」に属する。冬季(10月~3月)は乾燥しているが、4月から9月にかけて雨季となり、高温多湿となる。6月の平均雨量は700ミリに近いという。
アジアカップは1956年に香港で第1回大会が行われ、以後4年ごとに開催されてきた。しかし今日からは信じ難いことだが、日本サッカー協会(JFA)は、さまざまな理由でこの大会には非常に消極的だった。初エントリーは1968年の第4回イラン大会というありさまだったのだ。といっても1967年8月、翌年のメキシコ・オリンピックのための強化にしか目がなかったJFAは日本代表チームを南米遠征に送り出し、台北で行われた「アジアカップ東地区予選」に出場したのは代表のBチームだった。平木隆三監督に率いられたチームは奮闘したが、惜しくも得失点差で決勝大会出場はならなかった。
日本が次にエントリーしたアジアカップが1976年、またもイランで開催された第6回大会だった。そして1975年6月に香港で行われたこの大会の「予選第3組」こそ、私が海外で日本代表を取材した初めての大会だったのである。ずいぶん前置きが長くなってしまったが、ことし9月の欧州遠征(対ドイツ、対トルコ)を前に、そして来年1月のアジアカップ・カタール大会を前に、今回は半世紀前の日本代表取材とはどんなものだったのかをお話ししておこうと思う。