■JSL総務主事という重責

 結局、この仕事に、森は4年間かかわった。三菱重工に戻ったのは1978年。新しい職場は、また責任が重く、仕事も忙しい広報課だった。

 こうした多忙な仕事をこなしながら、森はJSLの運営にも奔走した。総務主事は三菱重工の井上健からフジタ工業の下村幸男に代わっていた。下村はJSL初期に東洋工業が4連覇(日本のサッカーのトップリーグで他にこの記録はない)を飾ったときの監督で、1972年にJSLに昇格した藤和不動産(1975年に名称変更してフジタ工業)の監督に就任。後任にチームを任せた後、JSL総務主事という重責を担ったのだ。ただ社業もかかえており、「常勤」というわけではなかった。

 下村の下で森が取り組んだのが「自主運営」だった。1965年に始まったJSLでは、基本的に試合運営はすべてリーグが行っていた。試合会場の確保からチケッティング、当日の試合運営まで、チームは完全にノータッチ。試合日に指定されたスタジアムに行って試合をして帰ってくればよかった。

 だがこれはリーグ戦の本来の姿ではないし、プロ化という「未来」にもつながらない。そこで森が考えたのが「自主運営」という言葉だった。「選手のプレーだけを考えれば、1970年代の前半にプロ化されていても十分できた」とあるとき森は語ったが、チームを運営し、試合を運営し、リーグを運営するプロが、当時はいなかった。それをつくるには、競技場の手配からチケッティング、そして当日の試合運営にいたるまで、個々のチームが自主的に行い、業務に精通していかなければならない―。

(2)へ続く
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