日本のサッカーは、多くの人の手によって育まれてきた。そのひとりである森健兒さんが、今年8月に亡くなった。進んで表に出ることはなかったが、裏方として日本サッカーの発展に力を尽くしてきた人物だ。Jリーグ誕生のキーマンともなった森さんの人生を、サッカージャーナリスト・大住良之がつづる。
■集大成としての国内二冠
8月24日に84歳で亡くなった森健兒さん。前回は森さんがどうサッカーと出合い、そして三菱重工に入社した後、週末にしか活動ができない「純粋アマチュア」だったサッカー部の選手たちの環境をどう整備し、日本代表選手をかかえるチームにふさわしく改善していったかという話を紹介しました。今回は、Jリーグ前の日本のサッカーのトップリーグであった日本サッカーリーグ(JSL、1965~1992年)の運営にあたり、森さんが何を考え、どうプロ化への足元を固めていったかの話です。(以下敬称略)
1974年元日に国立競技場で行われた天皇杯の決勝戦で三菱重工が日立製作所に2-1で勝ち、JSLと併せて「二冠」を達成した歓喜に沸くなかで、森健兒(当時35歳、三菱重工コーチ)は、「サッカー部での自分の仕事は終わった」と感じていた。
慶応大学時代でサッカーを堪能し、社会人になったら仕事で生きていこうと決意して三菱重工に入社した森だったが、デットマール・クラマー・コーチの提言に従って1965年にJSLが誕生すると、いきなりサッカーの世界に引き戻された。1年目は選手として活躍、2年目以降は社業をフルにこなしながらも選手のプレー環境整備のために社内のさまざまな部署と調整して回る生活となった。そうした苦労が実り、選手たちは日本のトップリーグの選手、あるいは日本代表選手にふさわしいプレー環境でサッカーに取り組めるようになっていた。「二冠」は、そうした森の努力が結実した証拠だった。