■森を手放さなかった日本サッカー界

 だが、サッカーは森を手放さなかった。三菱のコーチという役割のかたわら、前年から森は三菱サッカー部からJSLの運営を担う「運営委員」に出され、JSL全体の運営にもたずさわっていた。しかし三菱のサッカー部から離れると知られると、森は「常任運営委員になってほしい」と懇願された。

 10人程度のサッカー界の重鎮からなる常任運営委員会は、「総務主事」を筆頭にJSLのすべての活動の方針を決め、リーグを運営する実質的な「最高意思決定機関」だった。しかも当時の総務主事は「専任」ではなく、所属会社の管理職として責任の重い仕事をしていたから、「若手」の常任運営委員にかかる負担は大きかった。ちなみに、この年に常任運営委員入りした若手がもうひとりいた。森より1歳年下の古河電工の小倉純二(後に国際サッカー連盟理事、日本サッカー協会会長)である。だが小倉は古河のサッカー部に在籍していたわけではなく、トップクラスでの選手経験もなかった。自然、森が中心になって実務をこなすようになる。

 社業でも大きな変化があった。森は産業用のエンジンを販売する営業職にあったのだが、この年突然、「三菱創業百周年記念事業」という大事業にかかわることを命じられたのだ。1870(明治3)年に岩崎弥太郎が興した「九十九(つくも)商会」は、後に日本の中核企業三菱グループとなるのだが、その創業百周年を記念してJR巣鴨駅近くにあったグラウンドを、意義のある新施設につくり変えることが、プロジェクトの中心事業だった。

 岩崎弥太郎を記念するモニュメントをつくろう、病院をつくろうなどの話が出ていた。当時の日本では、スポーツ施設をつくるなどという発想はなかった。そこに森が出したのが、「地域型の総合スポーツクラブ」というアイデアだった。

 クラマー・コーチは、1964年の東京オリンピック後、「代表チームの継続的強化」「指導者の育成」「リーグ戦化」「芝生のグラウンドの確保」という4つの提言を出したことで知られているが、サッカーの関係者には日ごろから「地域型総合スポーツクラブ」の理想を語っていた。その知識があったから、当時日本代表選手だった川淵三郎が初めてドイツに行ったとき、スポーツ学校の施設を見て、後のJリーグにつながるアイデアをもつことができたのだ。

 「創業百周年記念事業」の話し合いで、森はそれを思い出し、提案した。それが、今日の「三菱養和会巣鴨スポーツセンター」のアイデアだった。人工芝のサッカーグラウンドと、豪華ではなくてもきちんとシャワーのあるクラブハウス。そしてプール、体育館、集会室などをもつ総合的なクラブビル。その施設を、三菱の従業員だけで独占するのではなく、地域の人びとに使ってもらう開かれたものにしたい…。それは川淵のアイデアと呼応し、後のJリーグにつながるものだった。

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