■「会社が私を求めている」

 同じことが4年後にも起こる。森は慶応大学のキャプテンとして大学サッカーで活躍、1年先輩の二宮寛(1937-、日本代表選手、後に三菱重工監督、日本代表監督)に「三菱にこないか」と誘われた。

 三菱重工は占領軍による「財閥解体」で東日本(東京)、中日本(神戸)、西日本(長崎)の3社に分割され、サッカー部は1950(昭和25)年に中日本重工につくられた。そして1952(昭和27)年には「新三菱重工」と社名を変更していた。岡野良定(1910-2008)という熱心な監督がチームを率い、地元の関西学院大学から優秀な選手を入れて強化していた。その新三菱が1958年に東京に本社を移転、こんどは慶大から有望な選手が集まるようになった。その第一号が、二宮だったのだ。

 岡野は人事担当で、採用の仕事をしていた。二宮から岡野に推薦されれば入社は決まったようなものだった。しかしここでまた森の「へそ曲がり」が出る。大学でサッカーを満喫したことで、就職したら仕事に生きようと思っていたのだ。だから二宮からの推薦は断った。だが新三菱には大いに興味があった。日本の戦後復興をリードする新三菱は、当時の学生に最も人気のある企業でもあった。

 森が狙ったのは、「学部長推薦」だった。慶大の経済学部に、新三菱は3人の枠を与えていた。森はその申請をした。

 「きみより成績の良い学生が40人も希望している。きみを推薦するわけにはいかない」。学部長面接であっさり言われた。しかし森は引き下がらなかった。

 「ほかの人はどこでもいいだろう。しかし会社は私を求めている。私の仕事場はここしかないんです」

 翌日、学生課の掲示板には、新三菱に推薦される3人の名前がはりだされていた。もちろん、森の名前もあった。

(4)へ続く
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