■東大進学からの路線変更

 森はよりいっそうサッカーに打ち込むようになり、反対していた父も応援してくれるようになる。当時、サッカーの上達に不可欠と言われていたのが「シューティングボード」だった。幅10メートル、高さ3メートルの板壁に実物大のゴールポストを描いたものである。これに向かってひたすらキック練習をするのである。実家に帰っていた森が「シューティングボードがないから、練習に差し支える」とぼやくと、ある日修道のグラウンドにシューティングボードが立っていた。父がひとりで立ててくれたのだ。

 1955(昭和30)年、高校3年生になるとキャプテンに選ばれる。だが修道での森のサッカーは失意のうちに終わる。国体出場を逃し、9月に始まる全国選手権の県予選を前にした夏合宿中に、盲腸炎になってしまったのだ。痛みをがまんして練習を続けたが、膿んで悪化し、予選に出場できないという最悪の事態になった。結局予選は敗れ、この年の全国大会出場はならなかった。

 3年の正月までサッカーをするつもりだったから、受験勉強をしている時間などない。森の計画は、1年間浪人して東大に行くことだった。東大はもちろん日本一の大学だが、戦前からのサッカーの名門校でもあり、戦後のこのころになっても関東の強豪のひとつだった。しかし盲腸炎で高校時代最後の予選に出場することができず、森の心に変化が生まれていた。慶応大学への進学である。

 スポーツにも力を入れていた慶大には、有望なスポーツ選手をとるための「セレクション」があった。これに参加していいところを見せれば入学試験が楽になる。しかし森の性格はサッカーを進学の手段とすることを潔しとしなかった。セレクションには参加せず、通常に受験して、見事経済学部に現役合格を果たした。

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