慶応入学にも三菱入社でもサッカーを「道具」としなかった「へそまがり」【森健兒さんとはどんな人物だったのか(上)】(3)の画像
三菱重工は浦和レッズの前身にあたる 撮影:原悦生(SONYα1使用)

 日本のサッカーは、多くの人の手によって育まれてきた。そのひとりである森健兒さんが、今年8月に亡くなった。進んで表に出ることはなかったが、裏方として日本サッカーの発展に力を尽くしてきた人物だ。Jリーグ誕生のキーマンともなった森さんの人生を、サッカージャーナリスト・大住良之がつづる。

■サッカーへと引き込まれた「決定打」

 中学3年の森がサッカーを始めた1952(昭和27)年、修道高校は年明け(1953年1月)の全国高校選手権で初優勝を飾っている。森が生まれる1年前、1936(昭和11)年に広島一中が初めて全国優勝を果たして以後、戦前から戦後にかけて広島は全国的なサッカーどころとなっていた。修道は1950(昭和25)年の国体で初めて全国的なタイトルを獲得した。高校になってサッカーを始める選手が多かった時代、中学時代から培った技術と、ハイレベルな広島でもまれた修道の力は、全国のトップレベルだったのだ。

 その修道高校のサッカー部が、1953(昭和28)年秋、愛媛での国民体育大会に出場する。そしてサッカーを始めて1年にしかならない森は、1年生でありながら、「補欠」として松山に向かった。当時のサッカーには交代は認められておらず、森は「試合に出ることもないだろう」と、漱石の『坊っちゃん』の舞台を楽しんだ。ところが準々決勝後にFWのレギュラーが熱を出し、準決勝からは森が出場することになる。ポジションはいちどもやったことのない右ウイングである。

 準決勝で大阪の強豪・明星に1-0で勝った修道は韮崎(山梨)との決勝に挑む。前年の優勝校。期せずして、第8回国体の決勝戦は、前年の選手権優勝チーム(修道)と国体優勝チーム(韮崎)の対戦となったのだ。

 試合は0-0のまま終盤を迎え、このまま延長戦かと思われた。しかし修道が最後の力をふりしぼって攻撃に出る。下がり気味の左ウイングにボールが渡り、その前のスペースにセンターフォワードが走り込む。そして相手DFをかわしてゴールライン近くからセンタリング。ゴール前に走り込んできたのは修道の右インサイドフォワード、そしてその外から右ウイングの森。韮崎のGKが必死にジャンプする。

 森はセンタリングが上がったところまでは意識があったという。しかしそこから先はまったくの無意識だった。ボールが顔いっぱいにぶつかってきた。森の顔から放たれたシュートは、ワンバウンドして韮崎のゴールネットを激しく揺らしていた。決勝ゴールだ。優勝だ。体が震えるようなその爆発的な喜びが、森を決定的にサッカーの世界に引き込んだ。

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