■人に前を向かせるもの
周囲に、そして陸上競技場の正面、校舎の２階中央にある教員室にちらりと目をやり、「ボールを拾いにきたんだから仕方がない」と、自分自身を正当化しながら、私は少しドリブルし、軽くけってみた。ボールは糸を引くように芝生の表面を滑り、やがて転がり始めると、芝生に着いた水滴が散水機のようにまき上げられた。
暑かった夏が終わり、体いっぱいに力がみなぎっていた。ボールを追って軽く走ると、体の奥底から喜びが湧き上がってくる。低く垂れ込めた雲の下でも、芝生はキラキラと輝くように美しかった。
隣のサッカーグラウンドでは相変わらず大声が飛び交っていたが、私は一瞬の静寂のなかにいた。自分がまるで世界にただひとりの存在のような感覚だった。霧雨の微小の雨粒さえ空中に停止し、ただただ、私は満たされた思いに包まれていた。このうえなく美しく、そして幸福感に満ちた瞬間だった。
おそらく、誰にもそうした幸福感に満ちた時間の記憶があるはずだ。サッカーを続けていれば、幸福な時間だけでは済まされない。うまくプレーができずに落ち込む日、夜も眠れないほど敗戦の悔しさを思う日もあるだろう。そんなときには、目をつむって深く息をし、心の奥底にある幸福な時間の記憶をたどれば、きっと気分も切り替わり、前向きな気持ちがわいてくるのではないか。
私が中庭のサッカーに夢中になった年代には世界中が注目する選手になっていたメッシにだって、何かしら、きっとそうした幸福な時間の記憶があるはずだ。プレッシャーだらけのサッカー人生のなかで、朝起きたときに、トレーニンググラウンドに向かおうと思わせるもの、そして、勝利だけを期待する、時として残酷な１０万人が取り囲むスタジアムのピッチに足を踏み出す力を与えるのは、きっとそうした幸福な時間の記憶に違いない。
