昨年10月に日本列島を襲った台風19号は多くの人々の生活に深い爪痕を残した。荒川の河川敷に広がる浦和レッズの総合スポーツ施設、レッズランドもゴールポストをはるかに超えるほどに冠水し、水が引いた後も、埼玉スタジアム3個分の広大な敷地を汚泥が覆いつくしていた。多くの人びとの強い意志によって復旧を果たすまでの道のりを詳細にレポートする――。
■川淵三郎キャプテンが感激した理由
2005年7月に仮オープン。日本代表の青いユニホームを着用してセレモニーに参加した日本サッカー協会キャプテン(会長)の川淵三郎さんは、「Jリーグ百年構想の夢を、レッズが実現してくれた。ありがとう」と、目をうるませながら語った。
そもそも、Jリーグの原点は、川淵さんが1960年代はじめに日本代表選手として訪れた西ドイツで見た「スポーツシューレ」だった。森に囲まれた広大な敷地にさまざまなスポーツ施設が散らばり、トップクラスのアスリートのトレーニング場になるとともに、地域の人びとが気軽にやってきてスポーツを楽しめる場が、西ドイツの各地に整備されていた。そのようなスポーツ施設をもつクラブを、日本中につくり、日本人の幸福に寄与したいというのが、川淵さんの夢であり、Jリーグの理念となった。
だが土地が高騰した日本では、Jリーグ・クラブは自治体などの協力を得てトップチームの練習場を確保するのが精いっぱいで、アカデミー(育成組織)が使う施設にも困る状況だった。浦和レッズのトップチームが練習する「大原サッカー場」も、所有はさいたま市だった。クラブのホームタウンの人びとまで楽しめる施設をもつことなど、夢のまた夢と思われていた。その「インポッシブル・ドリーム」を、まだJリーグで優勝もしたことのない浦和レッズがあっさりと実現してしまったのだ。川淵さんが感激するのも当然だった。
三菱自動車グループの社員として1993年から浦和レッズの仕事に係わってきた松本さんは、その日、「きょうはまだ仮オープン、これから先も『完成』はないかもしれない。地域の人といっしょに毎年少しずつ整備していかなければならないな」と考えていたという。