■サッカーのことしか頭になかった
クーバーさんが日本にくるきっかけをつくったのは、読売サッカークラブ(現在の東京ヴェルディ)を日本サッカーリーグ2部在籍時の1972年から1975年まで指導したオランダ人のサッカーコーチ、フランス・ファン・バルコムさんだった。読売新聞のサッカー記者として活躍していた牛木さんは、創設時からこのクラブに深くかかわり、異文化のなかで苦労していたバルコムさんにとっても良き相談相手だった。そのバルコムさんがクーバーさんに出会い、ほれ込んだ。そして彼が愛する日本のサッカーにぜひとも紹介しようと牛木さんを頼ったのだ。
牛木さんは即座に日本サッカー協会やいろいろなチームと連絡を取り、クーバーさんの短い滞在中にいくつかのクリニックを実現し、世話を焼いた。その間にクーバーさんから直接話を聞き、クーバーさんが語る「パーソナリティー」という言葉の意味を考えた。そしてそのときの一応の結論を要約したのが、「試合を支配する人間的迫力」という表現だった。
牛木さんの企画力と実行力は、それにとどまらなかった。クーバーさんの指導法とその考え方に惚れ込むと、翌1984年春には、1カ月間滞在してもらって日本全国で日本サッカー協会主催のクリニックを開催するとともに、クーバーさんの指導法をまとめた本の翻訳本『攻撃サッカー――技術と戦術』(旺文社)の刊行にこぎつけ、クリニックを実現させるため、電通を動かしてキリンビールの協賛(冠スポンサー)まで取り付けてしまうのである。
「恩師」と言っていい牛木さんから命じられて、私もほんの一部だったが、1983年12月と1984年春のクリニックのお手伝いをした。短時間でも、クーバーさんの指導ぶりを間近で見て、話をすることができたのは、大きな幸運だった。
1984年春の滞在中のある日、クーバーさんが電通のサッカー担当役員と会食する機会があり、私も同席した。食事後、電通の人びとと別れてから、クーバーさんとお茶を飲みながらサッカーの話をした。クーバーさんの頭にはサッカーのことしかなかった。そのほかの話題があった記憶などない。
そのなかで、私の質問は、ずっと引っ掛かっていたものの繰り返しとなった。
「何度も聞いていますが、パーソナリティーというものがまだひとつ理解できません」
そういうと、クーバーさんは即座にこう言った。
「さっきのきみ、それがパーソナリティーだよ」
電通の役員との会食では、当然のことながら、私はもっぱら聞き役だった。しかしどうしても訂正しておかなければならないことがあり、出過ぎたこととは理解しつつ、敢えて話の腰を折って自分の意見を言った。クーバーさんはそれを指して「パーソナリティーの表れだよ」と言ったのだ。