無観客試合をテレビの画面を通して観戦することが増えた。これからはもっと増えるだろう。早くスタジアムに行きたい。生で観戦したい。そこで、ここは逆境を逆手にとって、スタジアムの構造なども楽しむという趣向はいかがだろう。意外や歴史の深みを覗くことができるものだ。
■2度のワールドカップの間に
さて、冒頭にも書いたように、現在ドイツのブンデスリーガで使用されているスタジアムのほとんどはサッカー専用スタジアムだ。ドイツでは1990年代後半から2000年代前半にかけて多くの専用スタジアムが新しく建設され、また多くの陸上競技場兼用スタジアムが専用スタジアムに改修された。そして、快適な、サッカー観戦に相応しいスタジアムが整備されたことによって、ブンデスリーガの観客動員数も大幅に増加したのだ。
2006年のドイツ・ワールドカップでは12のスタジアムが使用されたが、そのうち陸上競技との兼用だったのは2カ所だけだった(決勝が行われたベルリンのオリンピアシュタディオンと日本対クロアチア戦が行われたニュルンベルグのフランケンシュタディオン)。
しかし、1974年に西ドイツ・ワールドカップが開催された時、使用された9つのスタジアムのうちサッカー専用だったのはドルトムントのヴェストファーレンシュタディオンだけだったのだ(フランクフルトのヴァルトシュタディオンやハンブルクのフォルクスパルクシュタディオンなど多くのスタジアムは、2006年大会でも再び使用されたが、すべてサッカー専用に改築されていた)。
つまり、ヴェストファーレンシュタディオン(ジグナル・イドゥーナ・パルク)は、ドイツにおける大規模サッカー専用競技場の先駆けとでもいうべきスタジアムだったのだ。
1974年大会で、僕は大会2日目にヴェストファーレンシュタディオンでザイール(現コンゴ民主共和国)対スコットランドの試合を観戦した。当時、このスタジアムのメインスタンドは1層式だったから、僕が座ったのは現在は下層スタンドになっている部分ということになる。そして、ゴール裏のサイドスタンドは、現在の「黄色い壁」と比較すれば、半分ほどの大きさだったわけだが、しかし、当時の日本人にとっては見たこともないような巨大な立見席だった。
ちなみに、この試合でスコットランドは前半34分までにピーター・ロリマーとジョー・ジョーダンの得点で2対0とリードしたのだが、その後は攻撃の手を緩めてゲームをコントロール。2対0のまま試合を終えた。2戦目以降、ブラジル、ユーゴスラビアという強豪と対戦することを考えれば、「無理はしない」という選択は理解できる。だが、スコットランド、ブラジル、ユーゴスラビアの上位同士の試合がすべて引き分けに終わったため、最終的には得失点差(つまり、ザイールから何点取ったか)による勝負となり、ザイールから9点取ったユーゴスラビアが1位、3ゴールだったブラジルが2位となり、スコットランドは無敗のまま帰国の途に就くことになってしまった。
さて、ドルトムントのスタジアムが当時の西ドイツでは珍しいサッカー専用スタジアムとなったのは、実は偶然の産物だった。
当初は、ノルトライン=ヴェストファーレン州ではケルン市が開催地に選ばれていたのだ。だが、ケルン市が新スタジアム建設の計画を放棄してしまったため、急遽同じ州のドルトムントが開催都市に選ばれたのだ。
当時、ボルシア・ドルトムントは「ロートエルデ・カンプバーン」という陸上競技兼用スタジアムを使用していたのだが(「ロートエルデ」とは「赤い土」の意味)、ドルトムントは1966年にカップウィナーズカップに優勝するなど1960年代に黄金期を迎えており、観客動員数も急増。3万人収容の旧スタジアムは手狭になっていた。そこで、新スタジアム建設計画が進んでいたのだ。
連邦政府、州政府、そしてドルトムント市が出資して、ロートエルデ・カンプバーンの隣に陸上競技場兼サッカー場が建設されることになった。だが、急遽開催都市に選ばれたため、予算も不足していたし、ワールドカップ開幕に間に合わせるためには工期短縮も必要だった。
当時の技術では、カーブの連続となる陸上競技場の設計や施工には時間がかかった。そこで、ワールドカップに間に合わせるために計画は変更され、サッカー専用スタジアムを建設することになったのだ。専用スタジアムなら、長方形のシンプルなスタンドを4つ造ればいいので、工期も短縮できるし、費用的にも安上がりだった。
これが“怪我の功名”だった。
ドルトムントの新スタジアムはワールドカップ開幕直前の1974年4月に完成し、大会で唯一のサッカー専用スタジアムとなった。そして、その後も改装と増築を繰り返し、今では8万人以上を収容するドイツ最大のスタジアムとなったのだ。