ブームの中心には白黒ボールが
それから1年、東京オリンピック後、岡野俊一郎や長沼健を中心にした日本サッカー協会の若手は、「日本サッカーリーグ(JSL)」の創設に突っ走っていた。協会幹部には反対意見が多かった。しかし「ノックアウト式の大会だけではだめだ。リーグ方式を確立せよ」というデットマール・クラマーの提言に、彼らは脇目も振らなかった。
そのプロジェクトを推し進めるメンバーのなかに、古河電工の西本八壽雄という人がいた。当時30歳。新リーグでの「白黒ボール」の採用を主張した。
リーグ設立だけでなく、「白黒ボール」の採用にも、協会は消極的だった。というより、「ダメだ」と切り捨てた。「検定球ではないから」という理由だった。
西本はあきらめず、ドイツ製のボールを見本に、故郷広島市のボールメーカー、ミカサ(東京オリンピックのバレーボール競技の使用球を供給し、すでにスポーツボールメーカーとして一流だった)に製作を依頼、1965年6月の開幕には間に合わなかったものの、9月12日の「後期」開幕に間に合わせた。
折からの「サッカー・ブーム」のなか、JSLは高い注目を集め、メディアも競って報道した。NHKを中心にテレビ中継もどんどん増えていった。サッカーという競技が一般の日本人の目に触れ、「物珍しい競技」ではなくなったのがこの時期だった。そしてその中心に印象的な「白黒ボール」があった。「サッカーといえば白黒ボール」のイメージが定着した。
ただ興味深いことに、1シーズン目の1965年秋に公募で制定されたJSLのマーク(最終選考したのは岡本太郎と石原慎太郎だった)には、紺色の「12枚パネル」のボールが描かれていた。「白黒ボール」に変わったのは、1974年のことだった。
こうして、「白黒ボール」は世界で、そして日本で「サッカーのアイデンティティー」となった。
ワールドカップでは、1978年のアルゼンチン大会で「タンゴ」と名づけられたデザインのボールが使われ、以後は、大会ごとに新しいデザインのボールが発表されている。1986年には、天然の皮革ではなく、人工皮革が使われるようになった。21世紀にはいると、最先端のボールは「手縫い」ですらなくなり、さらには「切頂正二十面体」でもなくなった。人工素材を球の一部のように成型することで、どんな形のパネルを何枚貼り合わせても「真球」に近いボールがつくれるようになったからだ。
もちろん、メーカーはいまでも「白黒デザインのボール」をつくっている。しかし写真撮影用の素材を探す人以外は見向きもしない。子どもたちは誰も欲しがらないし、白黒ボールを使うリーグやクラブもない。
「主役」の座にいたのは、1960年代から70年代のほんの10数年間。それでも、「切頂正二十面体」の「白黒ボール」はサッカーそのものと言っていい存在感をいまも失っていない。数あるスポーツボールのなかで、これほど他競技用のボールから際立ち、競技そのもののイメージと重なったボールはない。「白黒ボール」は、間違いなくサッカーの歴史を変えたのだ。