知られざる誕生日
だがこうした形にはひとつの難点があった。それぞれの「パネル」が細長い形になるため、「皮革」が一方向に延び、結果としてボールがゆがんでしまうのだ。
しかし白黒ボールは、20枚の白い「正六角形」と12枚の黒い「正五角形」、計32枚のパネルで形づくられている。
これは「アルキメデスの立体」とも呼ばれる「半正多面体(はん・せいためんたい)」のひとつで、「プラトンの立体」とも呼ばれる「正多面体」のひとつである「正二十面体」の12の頂点を切り落とした「切頂正二十面体(せっちょう・せいにじゅうめんたい)」と呼ばれる形である。ちなみに、すべての面が同一の正多角形で構成された「正多面体」は5種類しかなく、複数種類の正多角形で構成された「半正多面体」も13種類しかない。そのひとつが、「白黒ボール」に採用された「切頂正二十面体」なのである。
その名のとおり、発見されてから2000年以上たつ「切頂正二十面体」を、初めて建築に応用したのが、20世紀半ば、アメリカのリチャード・バックミンスター・フラーという多才な科学者だった。正六角形と正五角形を組み合わせることで、最少の部材で「球」に近いしっかりとした構造をつくりあげることができる。彼はそれを利用したドームを設計した。
さらに、この形をサッカーボールにしたらどうだろうと考えたのが、デンマークのスポーツメーカー「セレクト社」だった。1962年のことだったという。
「切頂正二十面体」を採用しただけではない。正六角形の部分を白く、正五角形の部分を黒く塗り、ここに「白黒ボール」が生まれるのである。パネルの枚数が増えたこととともに、力が各辺に均等にかかる「正多角形」という形状が「皮革」の延びを少なくし、「白黒ボール」の登場によってボールはより「真球」に近づいた。
生まれたばかりの「白黒ボール」にさっそく飛び付いた人びとがいた。デンマークとは陸続きで南に隣接するドイツ(当時は西ドイツ)に長年の宿願である「全国リーグ」をつくろうとしていたドイツサッカー協会の若手たちだった。1963年夏にスタートしたブンデスリーガの初年度、「似非アマチュア」から堂々と「プロ」となった選手たちの活気に満ちたプレーとともにファンの心を惹いたのは、緑のピッチに美しく転がる「白黒ボール」だった。当時のテレビ放送は白黒で、従来の茶色のボールでは目立たない。「白黒ボール」の導入は、テレビ放映を意識してのものだった。
その秋、ブンデスリーガが華々しく開幕したわずか2カ月後に、東京でオリンピックの「プレ大会」と位置づけられた「東京国際スポーツ大会」が開催され、西ドイツのアマチュア代表チームが来日した。彼らは持参した「白黒ボール」を試合で使うように要求、日本サッカー協会は渋々のんだ。
1963年10月16日は「白黒ボールの日」と呼んでもいい。この日、翌年のオリンピックに向けて大改装を終えた国立競技場のこけら落としとなった試合で、日本のサッカーで初めて「白黒ボール」が使われたのだ。日本代表は杉山隆一の得点で先制したが、前半終了間際に追いつかれて1-1で引き分けた。