■世界の分断にストップを

 この小説に出合ったのは1980年代の前半のことだった。

 私の読書は非常に偏っており、ひとりの作家を気に入るとその作家の本を徹底して読む。その一方で、他の作家のものを読むということにかけては非常に消極的であり、結果として人生を狭くしている。

「カート・ヴォネガット」という作家の本は読んだことはなかったし、アメリカでは若者を中心に大変な人気をもっていたらしいが、その名前も知らなかった。それは彼の小説が「SF」のジャンルに入れられていたからだ。中学生時代にはSFを熱心に読んだ時期もあったが、成人してから手に取ることはなかった。

 ところが、そのときには、書店の書棚に薄い背表紙だけ見せて並べられていたハヤカワSF文庫のこの本が私の目にはいったのである。

「本が呼ぶ」と、私はときどき思う。書店でぶらぶらしていると、なぜかある本が目に飛び込み、気になって手に取ってしまうのである。そして気がつくと、その本を胸にレジに並んでいる。

 はっきり言って、あまり面白いストーリーではなかった。少なくとも、その後読んだヴォネガットのほとんどの作品のなかでも、私のなかでは低いランクの小説だった。私の熱心な薦めでこの本を読んだ友人たちは、感想を聞くと、例外なく首をひねった。

 だが私は、「人工的な拡大家族」というアイデアに雷に打たれたような衝撃を受けた。

 重力異常や「緑死病」という感染症で世界中の経済が破綻し、アメリカも数十の国に分かれようとしているとき、最後の大統領になった男が、動いている最後のコンピュータを使って全国民に強制的に「ミドル・ネーム」を割り振る。経費はゼロ。それが彼の大統領としての最後の仕事だった。これからは、政府を当てにするのではなく、ミドル・ネームが同じ人たちを兄弟姉妹、従兄弟同士として助け合いなさい――。『スラップスティック(ドタバタ喜劇)』というタイトルにふさわしい騒々しいストーリーのなかに、ヴォネガットはこんなメッセージを埋め込んでいた。

 彼はそのアイデアを1970年に取材したビアフラの人びとから学んだ。

 ナイジェリアの中心にあって、ソ連や英国に支援された政府軍の攻撃にさらされ、滅亡していこうとしているイボ族の国ビアフラを取材して書いたルポルタージュは、武器も食料もなく、戦死か餓死を待つしかない絶望的な状況でも落ち着きや明るさを失わず、幸せそうにさえ見える人びとへの賛辞であふれていた。そのメンタリティーの源を、ヴォネガットは「大家族」にあると見たのだ。

「典型的なビアフラ人家族は二、三百人から成っていた。そして孤児院や老人ホームや救貧院はなく、戦争の初期においては難民救済計画さえなかった。みんなが──まったく自然に──そういう自分の家族の面倒を見ていたからである」

「家族は、男女の区別なく、しばしば寄り集まっては、一族のことを票決した。戦争になっても、徴兵制度はなく、家族が集まって、だれが軍隊に入るべきかを決定した」

「もっと幸せな時代には、家族はだれが大学に行くべきか──どこでなにを学ぶべきか──を決定した。そうすると、みんなが衣服や交通費や授業料を持ち寄った」(『ヴォネガット、大いに語る』「ビアフラ――裏切られた民衆」ハヤカワ文庫SF、飛田茂雄訳)

 ヴォネガットが夢見ていたのは、「兄弟愛」にあふれ、人びとが互いに助け合って、誰も孤独を感じないアメリカだった。だがいま、アメリカはその逆の方向に向かって世界を牽引している。「自国だけがよければいい」という「分断」の風潮は年を追うにつれ世界に広がり、そのさなかの新型コロナウイルスの襲来により事実上世界中が「鎖国」状況となった。コロナウイルスの脅威が去った後に、さらに世界の分断は進むという見方をする専門家は少なくない。

 慶応大学の黒坂准教授の指摘は、「そうした時代だからこそ、世界最大のスポーツであるサッカーの責任が重いのではないか」というものだった。

 ヴォネガットの夢はかなわず、アメリカは「分断化」の旗頭になってしまった。しかしサッカーは、考え方ひとつで、世界の人びとを再び結び付けることができるのではないか――。

 少なくとも、そうしたことを世界のサッカーのリーダーたちが真剣に考えなければならないときであるのは、確かだ。

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