■世界で最も愛されるスポーツ
『東京新聞』の水曜夕刊に掲載されているコラムで、「分断された世界を再び結び付ける責任がサッカーにはある」という内容の記事を書いた(5月13日付け)。そのなかでも触れたが、これは慶応大学准教授の黒坂達也さんから言われたことだ。
「ゴールデンウイーク」の間、ずっとその「宿題」を考えた。「サッカーが世界を結び付ける」って、どんなことだろうか――。
いまやすっかり「悪名」のなかに埋もれてしまったジョアン・アベランジェ元FIFA会長だが、彼が好んで使った言葉には、たしかに彼のFIFA会長としての哲学が表れていた。彼は、U-20をはじめとした年代別の世界大会を創設することでアフリカやアジアの選手たちが若いころから「世界体験」をする機会を増やし、「欧州のもの」だったサッカーを真に「世界のスポーツ」とした。
「サッカーは世界の言葉」
彼はことあるたびにこの言葉を口にした。(ただ、その資金を得るためにコカ・コーラをはじめとした世界的な資本と結びついたことで、「腐敗」もまた始まった。)
世界で最も多くの人にプレーされ、最も多くの人に愛されている競技がサッカーであるのは間違いない。ワールドカップの1カ月間、世界はサッカーの話題であふれる。FIFAの発表によれば、2018年ワールドカップ・ロシア大会のテレビ視聴者総数はなんと35億7200万人(!)、決勝戦1試合だけでも、11億2000万人になったという。フランスとクロアチアの対戦を、全人類の7分の1強もの人が見たというのだ。
たしかに、ワールドカップは「人類の祭典」というにふさわしく、世界に共通の話題を提供する。だがこうしたサッカーの「繁栄」が人類を結び付けることにこれまでどれほど寄与してきただろうか。結び付けるどころか、逆に対立や分裂をあおってきたのではないか――。
熱烈なサポーターたちは、自分のクラブへの熱愛のあまり、ライバルたちを敵視する。ナショナルチーム同士の試合はまるで戦争のようだ。そしてサッカー・スタジアムが、差別意識という人間の悲しい性の絶好の「はけ口」であることを否定できる人はいない。FIFAやUEFAといった組織が声を涸らして「差別撤廃」や「リスペクト」を叫ぶのは、現在のサッカーが人類を結び付けるという理想からかけ離れたところにあることを暗示している。
「いま世界は分断化が進んでおり、新型コロナウイルスでさらにその勢いが加速しています。人類を再び結び付けることは、最大のスポーツであるサッカーという競技の使命です」
4月23日にオンラインで開催された日本サッカー協会の百周年記念事業委員会の席上、黒坂さんはこう話した。その言葉が、美しい五月晴れなのに家にこもっていなければならない生活のなかで私に考え込ませた。思い至ったのが、「兄弟クラブ」というアイデアだった。