大住とクライフと14番と

 言うまでもなく、私も熱心な「クライフ教徒」である。

 1980年秋、アメリカの「ワシントン・ディプロマッツ」の一員として初めてクライフが来日することになった。『サッカー・マガジン』ではそれを記念してクライフ特集の別冊をつくることになった。通常号の仕事をこなしながら別冊をつくるのは相当過酷な仕事だ。当然のように、連日徹夜となる。だが深夜の編集部で写真を選びながら、私は自分がニヤニヤ笑っているのに気がついた。クライフの別冊をつくる仕事が楽しくて仕方がなかったのだ。

 熱心な、というより熱烈な「クライフ教徒」であることを認めるのはやぶさかではない。だが、「だから14番か」と言われるのは、実は心外である。なぜならば、クライフより私のほうが「14」番を付けたのは早かったからだ。

 若き日のジャック・ティベール(後の『フランス・フットボール』誌編集長)が1974年に書いた『ヨハン・クライフ・スーパースター』という本の英語版が手元にある。それによると、クライフが背番号14をつけたのは1970年の8月のことだった。

 当時、ヨーロッパでは、どこのリーグでも先発選手が1番から11番をつけることになっていた。しかし1970/71シーズンが始まる前、リヌス・ミケルス監督はクラブ首脳に提案し、全選手に固有の背番号をつけさせることにした。

 「プログラムづくりが簡単になり、ファンに見分けやすくなり、何よりも新鮮だ」

 前シーズンまで、クライフは7番から11番まで、攻撃陣のあらゆる番号をつけてプレーしてきた。アヤックスの絶対的エースとして、彼は背番号選択の最優先兼をもっていた。

 「ヨハン、9番にするかい? それとも10?」

 クラブのマネジャーがそう聞くと、クライフはこう答えた。

 「10番はペレ、9番はディステファノ。僕は誰でもない、14番だ」

 そして「呪術の番号」が生まれた。

 一方、私が初めて14番をつけたのは、1970年4月のことだった。

 神奈川県の高校を卒業した直後、サッカー部の仲間など16人で新しいチームをつくることにした。そして私と横浜に住む友人の2人で「上京」し、外神田の「ミクニ商会」にユニホームを注文しに行った。私たちが意図したハイセンスなユニホームは、鎌倉や横浜のスポーツ店ではつくることができないと判断したからだ。

 その日、私と友人はミクニ商会の人と色や素材などを綿密に打ち合わせをし、2番から11番をLサイズで、そして12番から16番をMサイズでつくってくれるよう依頼した。

 横須賀の実家に帰ると、私は第1希望と第2希望を記入する「背番号申し込み書」をつくり、一般に「青焼」と呼ばれていた湿式コピー(わからない人は調べてください)を使って15枚製作して友人に送った。友人が各メンバーに送付し、返送してもらって背番号を決めることになっていたのである。

 12番から16番まで小さめのサイズにしたのは、私が12番を取るつもりだったからだ。12番はあこがれの番号だった。

 私の1年先輩に「神奈川県最高のストライカー」と言われたFWがおり、小柄ながら強烈な得点力をもっていた。当時の高校チームは、ユニホームといえばチームで2番から12番をもっているだけだった。先発が11番までを着て、交代選手(公式戦では1人しか認められていなかった)が12番をつけて出場した。(練習試合で多数交代できるときには、タッチラインで汗だくのユニホームを脱いで交代選手に着させた(!))。

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