背番号14が意味するもの

 日本でワールドカップのサッカーを目の当たりにした最初は1970年のメキシコ大会で、東京12チャンネルが大会後1年間にわたって紹介した『三菱ダイヤモンドサッカー』においてだった。ブラジルが優勝し、ペレの背番号10以上に黄色いシャツに水色のユニホームが人気になった(ワールドカップがカラー放送された最初の大会だった)。

 その4年後、日本中のサッカーファンが西ドイツで開催されたワールドカップに固唾をのんだ。このときは東京12チャンネルで決勝戦だけ生放送が行われ、他の試合は再び1年間をかけて『ダイヤモンドサッカー』で放映された。

 その放送で、「トータルフットボール」を引っ提げたオランダのサッカーと、その中心に「王様然」として立つ背番号「14」のヨハン・クライフがいたのである。

 この大会、オランダは名字のアルファベット順に背番号を割り振った。GKヨングブロートは背番号「8」であり、「1」番はFWヘールスの背中にあった。本来なら「1」番はクライフのはずだったのだが、彼だけは「アルファベット順」を免除され、「14番」をつけていた。そしてあろうことか、当時「プーマ」の広告塔でもあったクライフは、オランダ代表のユニホームの袖につけられた「3本線」まで拒否し、なんと自分のユニホームには「2本線」をつけさせたのである。

 これが普通のスター選手なら「鼻持ちならないわがまま」と嫌われることだろう。しかし彼は文字どおり隔絶した選手だった。夢のようなプレーで世界をとりこにしてしまう。

 この大会のスウェーデン戦で2回にわたって見せた「クライフターン」を、世界中の少年たちだけでなくプロ選手たちが夢中になって真似をし、練習した。だが誰もクライフのように鮮やかにターンすることはできなかった。彼はまったく特別だった。

1974年6月19日、私はドルトムントのスタジアムの8列目から「クライフターン」を目撃した
1974年6月19日、私はドルトムントのスタジアムの8列目から「クライフターン」を目撃した

 幸運にも、私はこの試合をドルトムント・ウェストファーレン・スタジアムの西側のスタンドで見ることができた。現在は四方が巨大なスタンドで囲まれ、8万人を収容するこのスタジアムだが、当時はサポーターがはいる北側の立ち見スタンドだけが巨大で、他の3つのスタンドは一層式、30段ほどの低いものだった。私の席は、西側のスタンドの中央からやや左、前から8列目だった。

 サッカー専用スタジアムだから、タッチラインはすぐ目の前にある。私からわずか20メートルほどのところ、左タッチライン際でクライフがボールを受ける。抜かれまいと身構える相手。クライフはピッチの中央を向き、右足の前にボールを置いて右足でパスを送るかっこうをする。体を寄せる相手選手。その瞬間、クライフは右足インサイドでボールを左足の後ろを通し、縦に抜けている。

 私に見えたのは、クライフのプーマのシューズの白い底だった。クライフが足をさっと返したとき、まるで静かな池から鯉がジャンプしたかのように、シューズの白い底がキラッと光ったのだ。

 クライフはアヤックス時代に背番号「14」をつけて有名になったのだが、この当時にはスペインのバルセロナに移っていて、スペイン・リーグでは公式戦では先発が1番から11番をつけることになっていたので、通常は9番をつけてプレーしていた。だがこのワールドカップでの活躍が「14」番を光り輝くものにした。

 もちろん日本も「14」番ブームとなり、多くの「クライフ教徒」が誕生した。私の記憶の限りでは、浦和西高で「超高校級のエース」と言われていた西野朗も「14」番をつけていた。もっとも彼が高校サッカーで活躍したのは1973年から74年の正月にかけてだったから、ワールドカップ以前にクライフのプレーに傾倒していたのかもしれない。さすがと言うか…。

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