後藤健生の「蹴球放浪記」第278回「釜本さんの母校を見に行く」の巻(2)野球少年を「世界の釜本」に変え、初代「釜本二世」を生んだ学校、JFAに求めたい「記念碑」設置の画像
釜本邦茂引退試合の入場券。提供/後藤健生

 日本サッカー界最強のFWとして知られた、釜本邦茂さんが亡くなった。多くの人々が、不世出のサッカー選手の死を悼んだが、蹴球放浪家・後藤健生もそうしたひとりだ。今回は、尊敬していた釜本さんの母校を訪ねたときのエピソードを明かす。

■目に入った「中学校」の名前

 広隆寺がある太秦(うずまさ)という土地は、昔、渡来人である秦(はた)氏が拓いた土地で広隆寺も秦氏の氏寺です。そんな歴史のある土地ですから、広隆寺以外にもさまざまなお寺や神社があり、路地裏の散歩を楽しんでいました。

 で、「これからどちらに歩こうかなぁ?」と思ってマップを繰っていると、「蜂ケ岡中学校」という文字が目に入りました。僕は、すぐにその中学校に向かうことに決めました。

 そう、「京都市立蜂ケ岡中学校」というのは、先日お亡くなりになった、あの釜本邦茂さんの母校なのです。

 太秦は釜本さんの故郷でした。

 野球少年だった釜本さんが、太秦小学校のときに、先生から「野球がうまくなっても行けるのはアメリカだけだけど、サッカーがうまくなれば世界中に行ける」と言われてサッカーを始めたというのは、僕たちの世代にとっては有名なエピソードでした。

 そして、釜本さんは鉢ケ岡中学、山城高校でサッカーを続けて、高校時代から注目を集めてユース代表さらに東京オリンピック(1964年)を目指すフル代表に招集されて、本当に「世界の釜本」になったのでした。

 そんな話を昔から聞いたり読んだりしていたので、マップの画面上に「鉢ケ岡中学校」という文字を見た瞬間に、僕の脚は自然に動き出したというわけです。

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