
日本サッカー界最強のFWとして知られた、釜本邦茂さんが亡くなった。多くの人々が、不世出のサッカー選手の死を悼んだが、蹴球放浪家・後藤健生もそうしたひとりだ。今回は、尊敬していた釜本さんの母校を訪ねたときのエピソードを明かす。
■目に入った「中学校」の名前
広隆寺がある太秦(うずまさ)という土地は、昔、渡来人である秦(はた)氏が拓いた土地で広隆寺も秦氏の氏寺です。そんな歴史のある土地ですから、広隆寺以外にもさまざまなお寺や神社があり、路地裏の散歩を楽しんでいました。
で、「これからどちらに歩こうかなぁ?」と思ってマップを繰っていると、「蜂ケ岡中学校」という文字が目に入りました。僕は、すぐにその中学校に向かうことに決めました。
そう、「京都市立蜂ケ岡中学校」というのは、先日お亡くなりになった、あの釜本邦茂さんの母校なのです。
太秦は釜本さんの故郷でした。
野球少年だった釜本さんが、太秦小学校のときに、先生から「野球がうまくなっても行けるのはアメリカだけだけど、サッカーがうまくなれば世界中に行ける」と言われてサッカーを始めたというのは、僕たちの世代にとっては有名なエピソードでした。
そして、釜本さんは鉢ケ岡中学、山城高校でサッカーを続けて、高校時代から注目を集めてユース代表さらに東京オリンピック(1964年)を目指すフル代表に招集されて、本当に「世界の釜本」になったのでした。
そんな話を昔から聞いたり読んだりしていたので、マップの画面上に「鉢ケ岡中学校」という文字を見た瞬間に、僕の脚は自然に動き出したというわけです。