■指導スタートは「体育教師」から

 オランダ代表には1950年にデビューし、1954年までに5試合に出場した。試合はすべてアウェーで、デビューの1950年6月8日のスウェーデン戦は1-4、3日後のフィンランド戦は1-4、1954年4月4日のベルギー戦は0-4、5月19日のスウェーデン戦は1-6、5月30日のスイス戦は1-3と、きれいに「全敗」だった。ミケルスにも得点はなかった。

 オランダには当時「プロリーグ」はなく、王者のアヤックスもセミプロが何人かいる程度だった。もちろん、オランダ代表は欧州でも「弱小」のひとつであり、ワールドカップ出場も1934年の第2回イタリア大会に初出場して以来、皆無だった。

 1958年、ミケルスは脊椎を痛め、引退を余儀なくされる。30歳だった。オランダでは1954年にリーグがプロ化し、1956年にはそれまでの「1部リーグ」から発展した「エールディビジ」がスタートしていたが、ミケルスはその1956年から体育教師としての仕事を始めており、ろう学校に勤めていた。耳の聞こえない選手への指導が、「サッカー史上最高の監督」リスヌ・ミケルスのコーチとしてのスタートだったのだ。

 その後、アマチュアの「アッサー・ボーイズ」、3部リーグの「アムステルダムFC」で監督を務めた後、1965年1月、監督としてアヤックスに着任する。ミケルス36歳。そして「革命」が始まるのである。

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