
サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト大住良之による、重箱の隅をつつくような「超マニアックコラム」。今回は、世界中が約半世紀にわたって背中を追い続けてきた「モダン・サッカーの父」、ヨハン・クライフを見出した「サッカー史上最高の監督」について。
■現役時代に「122ゴール」
当時のアヤックスは、アムステルダム市の都心から見ると南東の郊外にあった小さなスタジアムと、その周辺のグラウンドで活動していた。スタジアムは「デメール」と呼ばれていた。一方、リヌスの家のあるオリンピアウェグは南西の郊外にあたる。約7キロの距離はけっして近くはないが、リヌスは毎日、自転車で通った。
しかし不幸にも、すでに前年9月にナチス・ドイツがポーランドに侵攻して新たな戦争が始まっており、この1940年にはオランダもあっという間にナチスの支配下となった。リヌスはアヤックスでのトレーニングを続けたが、1944年から1945年にかけての冬には、ドイツ軍の封鎖で450万人もの人が極端な食料難に苦しみ(「オランダ飢饉」と呼ばれ、2万2000人が餓死したと推定されている)、その活動も中断された。
1945年、戦争終結とともに17歳のリヌス・ミケルスはアヤックスの1軍に入れられ、翌1946年6月9日、18歳でトップチームにデビュー、デビュー戦ではADOデンハーグを相手に5ゴールを記録し、8-3の勝利に貢献した。アヤックスは8年ぶり8回目のオランダ・チャンピオンの座に就いた。
ミケルスは大柄なセンターフォワードで、技術的には難があると言われていたが、頑健さとヘディングの強さには定評があった。そして何より、ゴールに向かう火のような闘志を持っていた。彼は現役時代のすべてをアヤックスでプレーし、1946年から1958年の間に264試合に出場して122ゴールを記録した。