今とは違い、ビザが必要な時代から、韓国へ何度も足を運んできた蹴球放浪家・後藤健生。隣国の大統領による12月3日の「戒厳令」宣言は、世界を驚愕させたが、蹴球放浪家の脳裏に浮かんだのは、韓国における「サッカー」と「独裁政権」、そして「軍事衝突」の意外な関係だった。
■日本にとって「先輩格」だった
その後も、1990年代にかけて僕は何度も韓国を訪れました。当時、韓国サッカーは日本の強敵で、1960年代から日本代表は韓国に勝てない時代がずっと続いていました。1993年にJリーグが開幕し、ハンス・オフトが代表監督に就任にしてから、ようやく日本代表は韓国と互角に勝負できるようになりました。
ですから、韓国サッカーは日本にとって「先輩格」だったのです。それで、僕は韓国に何度も旅行したのですが、軍事独裁政権が続き、民主化運動も激化した、かなり大変な時期でもあったわけです。
ソウル・オリンピックが開かれる1年前の1987年の夏には、延世(ヨンセ)大学校の学生、李韓烈(イ・ハニョル)君が戦闘警察が発射した催涙弾を頭部に受けて死亡するという事件も起きていました。
僕自身もソウル市内で民主化デモの現場に居合わせたことがあります。それに対して、警察が大きな音を出す催涙弾を発射して、両者がハデにやり合っていました。
しかし、大通りの向こう側でデモ隊と警察が闘っている間も、道路のこちら側では市民が普通に通行していて、カフェでは人々が何事もないかのように談笑していました。