■チケットを持っている人物の「手と爪」

 競馬場で観客が馬の状態を下見するために設けられた小さな囲い地を示す「パドック」を、手を伸ばせば選手に触れられそうな立ち見席の名に使うのは、いかにもイングランドらしい。イングランドのスタジアムにはもう存在しない立ち見席は、当時「テラス」と呼ぶクラブもあったが、チェルシーFCのスタンフォード・ブリッジ・スタジアムでは、「シェッド(物置)」と呼んでいた。

 驚くのは、「オールド・トラフォード・パドック」90ペンスが、この試合の「最安席」ではなかったということだ。小嶋氏によれば、最も熱狂的なサポーターが集結するゴール裏の「ストレットフォード・エンド」という立ち見席は、このシーズンの入場料が80ペンス(約368円)だったという。

 サワベ氏の写真が与える第一の驚きは、この入場料の安さである。

 しかし、それ以上に私が衝撃を受けたのが、この入場券を持っている人物の手と爪だった。けっしてゴツゴツしているわけではない。20代か、もしかしたら10代の「青年」だろう。彼の爪の先や皮膚との境には、黒いものがこびりついている。何らかの工場で、毎日油まみれになって働いている手であることは間違いない。1977年当時のサッカーがこういう人々のものであったことを、この写真は雄弁に物語っている。

 日本のサッカーと比較すれば、そのころも、ヨーロッパのサッカーは夢のような世界だった。巨大なスタジアムがいつも満員になり、サポーターが歌い、スター選手が躍動し、プロフェッショナルによるスピーディーなサッカーが展開されていた。

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