■広島が「サッカー県」になった理由

 ドイツ人捕虜たちは収容所内で音楽や演劇を楽しんだり、スポーツを行ったり、日本人相手に技術指導を行ったりしました。似島の東海岸にあった収容所にも、テニスコートやグラウンドが造られ、ドイツ人たちはフッスバール(サッカー)も楽しんでいました。

 捕虜の中にはカール・ユーハイムという菓子職人もいて、広島物産陳列館(現在の原爆ドーム)で開かれた展示会で、日本で初めてバウムクーヘンを紹介しました。ユーハイムは、解放されてからも日本に残り、横浜で菓子店を開業。関東大震災後に神戸に移りました。ユーハイムは今でも神戸に本社を置き、日本を代表する製菓会社となっています。

 1919(大正8)年1月26日には、広島高等師範学校の運動場でドイツ人チームと高等師範学校、県師範学校、高師附属中学、広島一中の学生たちがサッカーの試合をしました。ドイツではすでにサッカーが盛んになっており、近代的なパス・サッカーも取り入れられていました。2試合を戦いましたが、5対0、6対0でドイツ・チームが連勝したそうです。

 そして、広島高師のキャプテンだった田中敬幸は、その後、毎週のように週末には似島に渡って、ドイツ人捕虜から指導を受けたそうです。後に、その田中は広島一中でサッカーを指導。同校OBによって結成された「鯉城蹴球団」は1924年と25年の全日本選手権(天皇杯の前身)で連覇を達成することになりました。こうして、広島は日本を代表するサッカー県となったのです。

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