後藤健生の「蹴球放浪記」第222回 「日本サッカーの恩人ゆかりの2つの島」の巻(2) 広島を「サッカー県」にした捕虜、日本人に「サッカー」を教えた中佐の画像
似島、江田島を右手に見ながら、フェリーは呉港に向かう。提供/後藤健生

 先月、広島の新スタジアムで日本代表戦が行われた。当然取材に赴いた蹴球放浪家・後藤健生だが、もちろんフィールドワークはスタジアムにとどまらない。瀬戸内海へと漕ぎ出し、日本サッカーに影響を与えた2つの島と歴史に思いを馳せた。

■数千人のドイツ軍将兵が「日本」へ

 時は110年ほど前に遡ります。

 1914(大正3)年に、ヨーロッパでは第1次世界大戦が勃発しました(「第1次」というのは「第2次」大戦があったから。当時は、ただ「世界大戦」とよばれていました)。イギリスと軍事同盟条約を結んでいた当時の大日本帝国は、イギリスの敵国であるドイツと戦争状態に入り、中国山東半島にあった膠州湾租借地や南洋諸島のドイツ軍と戦って勝利します。膠州湾租借地の中心が青島(チンタオ)市。「青島」といえばビールですが、それはここが昔ドイツの租借地だったからなのです。

 そして、数千人のドイツ軍将兵が捕虜となって日本に送られてきます。彼らを収容するため、日本各地に捕虜(当時の言葉では「俘虜」)収容所が造られました。そのうちの1つが似島にあったのです。

 日本はドイツ国民に対して憎しみを抱いていたわけでもありません。また、当時の日本政府は日本が近代的な法治国家であることを世界に示すためにも、ドイツ人捕虜を戦時国際法に基づいて丁重に扱ったのです。

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