■日本初のアジア制覇の偉業
中国との準決勝は、収容1万5000人の広島スタジアムで行われ、当然のように満員となった。日本は後半なかばにGK松永成立が退場になり、代わってゴールに立ったGK前川和也(現在、日本代表のGK前川黛也の父)が何でもないクロスを取り損なって同点ゴールを許すといったピンチがあったが、10人になっても猛攻を仕掛け、最後は福田のクロスを中山が豪快なヘディングで決めて3-2の勝利をつかんだ。
ただ、森保はこの準決勝で警告を受け、大会通算2枚目となって決勝戦は出場停止となった。決勝のサウジアラビア戦、森保に代わって「アンカー」を務めたのは吉田光範だった。試合は前半36分に都並敏史のクロスを胸で受けた高木琢也が冷静にボールを流し込み、これが決勝点となって日本に初の「アジアタイトル」をもたらしたのである。
もちろん、この日、広島のビッグアーチは満員となった。このスタジアムは現在では5万人収容とされているが、当時は「6万人収容」と表明しており、公式記録には「6万人」という数字が残されている。実際に何人入っていたかはわからない。だがともかく、満員だった。そしてサポーターの数は、とんでもない数に膨れ上がり、立錐の余地もないバックスタンドでどう動いたのか、「ウォーク」も立派に行われて、スタジアムを盛り上げたのである。
Jリーグの本格的なスタートは翌年の5月である。日本代表の奮闘が、そして東アジアのダイナスティカップ、全アジアのAFCアジアカップと続いた優勝(日本のサッカーにとって、全アジアのタイトルは、あらゆる年代、男女を問わず、これが初めてのことだった)が、「プロ化」に踏み切った日本のサッカーにこれ以上ない力を与えたのは間違いない。
それから32年。今大会でもし日本が優勝を飾ることができれば、森保監督は「選手」と「監督」の両方でアジアカップを制覇する初めての人になるという。