■「その後」への胎動
慌てたのは日本サッカー協会である。カタールでの決勝大会は12月。日本サッカーリーグはオフになっているが、天皇杯がある時期である。「アジアの決勝大会なのだから、最強の代表を編成して送り込むべきだ」という意見、「日本で最も重要な天皇杯があるから無理だ」という意見、さらには、「予選を突破したのは山口監督のチームなのだから、決勝大会も彼らに出場の権利がある」という意見…。意見百出のなか、結局、本来の日本代表監督である横山謙三が指揮を執り、基本的に予選のときのチームで出場することになった。
「B代表」の扱いだったが、このチームにはDF井原正巳、DF堀池巧、FW中山雅史、FW高木琢也など、後に日本代表の中核として活躍する有望選手が多数いた。それでも、経験不足は否めなかった。初戦こそ優勝候補のイランに0-0と健闘したものの、その後は韓国に0-2、UAEに0-1、カタールに0-3と3連敗。1分け3敗、無得点でA組最下位という形で大会を終えたのである。
これが日本の「アジアカップ決勝大会デビュー」である。森保監督が選手として出場し、日本代表が大会初優勝を飾るのは、その次の大会、わずか4年後のことである。