■アジアカップの成り立ち
アジアサッカー連盟(AFC)の結成後すぐに開始され、1956年に香港で第1回大会が行われて以後、4年に一度、アジアのチャンピオンを決めてきたAFCアジアカップ。しかし、日本サッカー協会は非常に消極的だった。目の前に迫った1964年の東京オリンピックに向けて日本代表を強化するために、目は世界に向けられていたからだ。韓国が最初の2大会で連覇するのを無視するかのように、日本のアジアカップ初エントリーは1968年の第4回イラン大会と、大幅に遅れた。
その予選は1967年夏、7月から8月にかけて、台北(チャイニーズ・タイペイ)で行われた。ところが同じ時期に長沼健監督率いる日本代表は、秋のメキシコ・オリンピック予選に備えて南米遠征を行うことになっていたので、平木隆三監督の下、「B代表」を結成して予選に参加した。韓国に2-1で勝つなど、猛暑のなか、3勝1分けと奮闘したのだが、チャイニーズ・タイペイに得失点差で先んじられ、決勝大会進出はならなかった。
2回目のエントリーは1976年、やはりイランでの大会である。このときには1975年6月に香港で行われた予選に長沼健監督率いる日本代表が出場した。エースの釜本邦茂が欠場のなか、若い攻撃陣は可能性を示したものの、準決勝で中国に敗れ、予選突破を逃した。
そして3回目のエントリーが1988年のカタール大会(アジアカップ決勝大会のカタール開催は、今回で3回目なのである)。しかし、代表チームではなく、山口芳忠監督が大学生中心の急造チームで予選に臨んだ。ところがこのチームが、マレーシアのクアラルンプールで行われた予選でクウェートに次いで2位となり、決勝大会のチケットをつかんでしまったのである。