パレスチナでの紛争に、世界が不安の目を向けている。その影響を、日本も他人事とは考えていられない。サッカー界でも、中東は存在感を増している。良くも悪くも中東が影響を与えるサッカー界でのパワーバランスについて、サッカージャーナリスト・後藤健生がつづる。
■「中東以前」の権力の推移
AFCは1956年に創設され、FIFA傘下にある大陸連盟のうち南米連盟(CONMEBOL)に次ぐ古い歴史を持った連盟である。
当時は、19世紀以来英国の植民地であり、アジア・サッカーの盟主的存在だった香港に本部が置かれ、会長も香港人の役員が選ばれていた。その後、1958年にはマラヤ(後にマレーシア)の首相だったトゥンク・アブドル・ラーマン氏がAFC会長となり、本部も同国の首都クアラルンプールに移された(現在でも、AFC本部はクアラルンプール近郊にある)。
トゥンク・アブドル・ラーマン氏は首相を退任してからも、1976年までAFC会長職にとどまり、同氏の後もイラン人のカームビーズ・アーターバーイー氏をはさんで、2002年までマレーシア出身者が会長を務めていた。
AFCの創設メンバーには、西アジアからはアフガニスタンとイスラエルだけが顔を出している。1950年代には中東諸国は事実上の英国の植民地状態にあり、経済的にも貧しい存在だった。第2次世界大戦前からの地域大国で、古いサッカーの歴史を持つイランを除いて、中東にはサッカーの伝統はほとんどなかった。
中東諸国の影響力が強まるのは、1973年の第4次中東戦争に伴ってペルシャ湾岸産油国がオイルマネーの流入で急速に豊かになってからのことだ。
産油国の各国政府(あるいは王族)は、豊富な資金を使ってスポーツクラブを作ってヨーロッパや南米のコーチを数多く雇い入れ、スポーツの強化に乗り出していった。