■当時の日本との差
しかし、当時、日本のサッカー協会は原宿の岸記念体育会館の中の一室にありました。
日本体育協会(現、日本スポーツ協会)の第2代会長、岸清一を記念して1940年にお茶の水に建設された岸記念体育会館は、1964年の東京オリンピックを機に国立代々木第一体育館の南側に引っ越してきました。そして、このビルに日本体育協会はもちろん、各競技団体のほとんどが入居していたのです。
日本サッカー協会も、たしか3階の一室にありました。隣はホッケー協会だったような気がしますが、この記憶は定かではありません。
小さな部屋で、会長以下の役員のほか2、3人の事務局員が働いていました。協会に電話をすると、いきなり「はい、日本サッカー協会です」と長沼健会長が電話口に出てくるという、まるで個人商店のような状態だったのです。
それに比べれば、たとえ築数十年であっても、大韓蹴球協会は“自社ビル”を構えていたのです。「さすが、サッカー強国」と感心するしかありませんでした。
当時の協会会長は大宇(デーウ)財閥の創始者、金宇中(キム・ウジュン)氏でしたから、資金は同財閥が負担していたのでしょう。韓国では、各競技団体を財閥や大企業が丸抱えで面倒を見るのが伝統でした。一種の社会貢献なのでしょう。