■カメラマンの存在感
選手たちや長沼監督が私たちを気安く受け入れてくれたのは、今井さんの存在が大きかったような気がする。今井さんは1972年からフリーランスとして『サッカー・マガジン』の仕事を始めたのだが、写真の確かさだけでなく、類のない人柄の良さで、またたく間に選手や監督たちとの信頼関係を築いていた。
今井さんは海外で取材をするのはこれが初めてだったが、国内での日本代表合宿には毎日のように出かけており、このころには「チームの一員」のような雰囲気になっていた。練習や試合のときだけでなく、常にカメラを首から下げ、選手の「オフ」の写真も撮りまくっていた。いわば「チームづきのカメラマン」のような形だったのだ。
そこに今回は若造の編集者兼記者がひとりついてきた。しかし長沼監督も選手たちも「まっ、いいか」というぐらいだったのではないか。私ひとりだったら、同じバスに乗れとまでは言ってくれなかったに違いない。
ピッチの現場でいつも顔を合わせる今井さんを知らない選手はいなかった。ベテランの選手たちとは、とくに仲が良かった。一方、私と言えば、同年配の選手が多かったので、あまりビビらずにすんだ。なかでも奥寺康彦さん(23歳)は、私と同学年というだけでなく同じ神奈川県の高校出身で、2年のときにはインターハイ神奈川予選の1回戦で当たった仲だったから、すぐにうち解けた。
とはいっても、彼は当時すでに神奈川県の高校サッカーのスーパースターで、インターハイ予選の1回戦では開始早々にバケモノのようなヘディングシュートを決めていたのに対し、私はベンチに座り、奥寺さんがまるで2階にかけ上るようにジャンプしてヘディングで叩きつけるのをあぜんとして見守っていただけなのだが…。