■広報担当もいない時代

 なぜこんなに「優遇」されたのか。それは、日本の「取材陣」はわずか2人、『サッカー・マガジン』から派遣された今井さんと私だけだったからだ。日本の重要な試合のときだけは読売新聞の香港駐在員がきたが、サッカーのことはまったく知らない人だった。

 チーム役員は、JFA副会長で日本代表チーム団長の藤田静夫さん、長沼監督、平木コーチのほか、安斎勝昭トレーナーだけ。シェフはもちろん、キットマネジャーも広報担当もいなかった。洗濯や練習用具の準備は、選手たちが当たり前のようにやっていた。藤田さんは、チームから離れ、他国の役員やアジア・サッカー連盟(AFC)の役員たちとの「外交」に専念していた(これが「団長」の本来の仕事だ)。

 選手は18人。予備登録には釜本邦茂さん(31歳)と小城得達さん(32歳)がはいっていたが、ケガをかかえていたため不参加となり、1968年のメキシコ・オリンピック銅メダルの経歴をもつのは森孝慈さん(31歳)ひとり。あとはGK船本幸路さん(32)と大仁さんが30歳を超えているだけで、落合弘さんは29歳。残りの多くは20代前半の若手だった。

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