■勇断できる人物への引き継ぎ
森自身は、彼に代わる総務主事を探していた。誰でもいいわけではなかった。活性化委員会を招集したばかりで、JSLは非常に微妙な時期にあった。あせって人選を間違うと、せっかくここまで積み重ねてきたものがすべて水泡に帰してしまう恐れがあった。これまでのサッカー界の流れをしっかり把握し、しかも現状のサッカー界に満足していない人―。転勤でやはり名古屋にいた古河電工の川淵三郎が東京に戻ることになったと聞いたのは、ちょうどそのころだった。
川淵は早稲田大学を出て古河電工で活躍、東京オリンピックの代表として3-2で勝ったアルゼンチン戦で同点ゴールを決めたスター選手だった。古河の監督となって後にチャンピオンとなるチームの土台を築いた後、1976年からはともにJSLの常任運営員として活動した。その後、川淵はJFAの強化本部長、日本代表監督を務めた後、名古屋勤務となってサッカー界から離れていた。
森は活性化委員会の結論も話した。だが当時の川淵は「何がプロか」と思っていた。勝利を追うだけで卑劣なプレーが横行するJSLに大きな怒りを感じていたからだ。だが森は、そうした情熱をもつ川淵だからこそ、しっかりとした考え方の下でプロ化を進めてくれるに違いないと確信していた。森が「仕事の都合で、これ以上JSL総務主事を続けることはできない。お願いします」と言うと、川淵は快く引き受けた。
川淵は「第二次活性化委員会」を招集し、翌1989年3月には報告書が提出される。再び小倉を委員長とした委員会での熱い議論を聞きながら、川淵の心には「理想のプロリーグをつくろう」という思いがふくらんでいった。森が期待したとおりだった。
そして以後は猛烈な勢いでプロリーグ設立の動きが始まる。森が驚いたのは、川淵がクラブを母体の企業から完全に独立した法人格をもたせたことだった。そしてまた、クラブ名に企業名を入れることを許さず、地域名プラスニックネームという形にしたことだった。参加を希望していた企業(日本を代表する大企業ばかりだった)から大きな反発もあったが、勇気をもって決断する川淵を見て、森は深い満足を覚えた。