■「人のために働く」精神の源
超多忙で責任の重い社業のかたわら、JSLの実質上のリーダーを14年間も務め、そのなかで将来につながるさまざまな改革を断行し、「プロ化」への道を切り開いてきた森。それだけでも驚嘆すべきだが、そうした仕事をこなしつつ、1977年には日本ミニサッカー連盟(現在の日本フットサル連盟)の設立発起人のひとりとなり、初代理事長を務めた。さらに1979年には、日本女子サッカー連盟(1989年にJFAが女子サッカーを直接管轄するようになったため、発展的に解消)の設立発起人、初代理事長を務めているのである。
とくに女子サッカーにおいては、JFAからの援助がほとんどなかった初期に三菱養和会巣鴨スポーツセンターのグラウンドで第1回全日本女子選手権を開催、日本女子代表の海外遠征を三菱グループに支援させるなど、さまざまなところでサッカーに係わる人びとを助ける活動をしてきた。まさに「超人的」といった活動ぶりだった。
「若い人、次の世代の力になりたい。少しでもいい環境をつくりたい」
森の活動の根底にあったのは、変わることのないこうした姿勢だった。その姿勢に、私は、広島湾に浮かぶ小島に原爆孤児を育てる施設をつくり、後半生を捧げた父・芳麿の生き方の影響を感じる。そしてまた、その父の、当然森自身の先祖である名僧・大瀛(だいえい)を思い起こさせる。
父・芳麿は、広島市安佐北区にある「勝円寺」という浄土真宗の寺の次男だったため教師の道を選んだが、森の先祖で、江戸時代の半ばにこの寺で住職を務めたのが大瀛である。大瀛は親鸞以来の浄土真宗のあり方が批判にさらされ江戸中期、江戸に出て大論戦を展開、批判派を見事に論破して親鸞の教えを守ったことで「和上」の称号が与えられているという。
「私心をもたず、人のために働くことをいとわないのは、そうした先祖や父の影響かもしれないね」
自分自身のためにではなく、徹頭徹尾、人のために、なかでもこれからの時代を担う若い人びとのために力を惜しむことなく働き続けた森。そのビジョンは常に10年先、20年先を見通しており、何十年という時代を経てもその価値観はまったく古ぼけては見えない。そしてその後の日本のサッカーの発展を考えるとき、日本サッカーの最も重要な時期に、森健兒という人材を得た幸運を思わずにいられない。