日本のサッカーは、多くの人の手によって育まれてきた。そのひとりである森健兒さんが、今年8月に亡くなった。進んで表に出ることはなかったが、裏方として日本サッカーの発展に力を尽くしてきた人物だ。Jリーグ誕生のキーマンともなった森さんの人生を、サッカージャーナリスト・大住良之がつづる。
■自ずと導かれた「プロ化」
1988年3月、森はJSL内に「活性化委員会」を組織した。JSLをいかに活性化し、それによって日本代表を強化し、再び世界の舞台に送り込むことができるか―。従来のしがらみにとらわれず、自由闊達な意見を求めた。委員会に組織に当たり、森は「プロ化」という言葉を一切使わなかった。ただ、選手、指導者、運営と、あらゆる面で「専門化」を推し進めていけば、たどり着くところは自ずと決まってくるのではないかと考えていた。
座長には、以前森とともにJSLの常任運営員を務め、1981年から社業でロンドンに駐在して1987年に帰国、古河電工のサッカー部長を務めていた小倉純二を指名した。森自身が中心にならなかったのには理由があった。実はこのころ、森は深刻な「板挟み状態」に陥っていた。JSLの総務主事に就任した半年後の1986年7月、森は名古屋に転勤になり、「航空機製作所資材部次長」となっていた。以後、名古屋で仕事をこなしながら東京で開かれるJSLの会議に出席するという生活を送っていたのだ。森のこうした状況をカバーしたのは、専任の事務局長だった木之本興三だった。言うまでもないことだが、当時は「オンライン会議」などない。
だが1988年4月には「次長」から「部長」になることになっていた。次長なら上司がいてカバーしてもらえるが、部長になると簡単に名古屋を離れることなどできなくなる。森の下には300人を超すスタッフがいた。その人事まで、何もかも自分でするしかない。責任は重かった。
活性化委員会は、小倉を委員長に、村田忠男(後に日本サッカー協会副会長)、木之本興三(後にJリーグ常務理事)、杉山隆一(元ヤマハ監督)、森孝慈(元日本代表監督)など、そうそうたるメンバーで構成されていた。短期間に6回の会合をもったが、全員が会社員という立場だったこともあり、会議は大半が夜だった。夜半まで続く熱い会議で、日本のサッカーの未来が形づくられていった。1988年夏、活性化委員会は検討結果の報告書を出し、「現状改革を進めながら、トップリーグを商業ベースによる事業化を志向した『スペシャル=リーグ』(プロリーグ)にすることを再検討する」という結論を明らかにした。