■航空券の値段は「給料1か月分」
そうしたなかで、『サッカー・マガジン』が3人、最終的にはもうひとり記者を追加して(1970年メキシコ大会を取材した経験のある、当時の編集長)、4人のスタッフを現地に送り込むことにしたのは大英断だったし、いわば雑誌の命運を託したビッグプロジェクトだった。海外の通信社からの写真をフルに使うライバルの『イレブン』誌(日本スポーツ出版社)との競争に負けるわけにはいかなかった。
カメラマンは、2人ともワールドカップ前から欧州に送り込まれていた非常に力のあるフリーランスだった。編集チーフのHさんは取材パスが取れない場合を考慮して、自腹を切ってこの2人に大金を送り、現地で発売になったチケットを買わせてあった。しかし幸運にも記者2人、カメラ2人の取材登録が認められた。チケットはHさんの友人の旅行業者に回され、「ワールドカップ観戦ツアー」が組まれた。1970年のメキシコ大会を東京12チャンネルの『ダイヤモンド・サッカー』がほぼ全試合放送し、ワールドカップは日本でもサッカーファンの間で夢の大会になっていたのである。
だがチケットが余った。そこでHさんは、アルバイトから正式社員になってまだ1か月の私に「行く気があるか」と聞いてきた。もう記者登録は間に合わない。条件は、休暇という形で自腹で行くこと。ただし試合のチケットは余っているものを使っていい。そして行くのは大会前半だけ。1次リーグが終わったら帰国して雑誌づくりに当たる。飛行機は、日本から欧州に行く最も安い便、アエロフロート(ソ連航空)で、5万5000円だという。
入社して1か月。もらった給料は1か月分だった。初任給の手取りはちょうど5万5000円ぐらいだった。貯金など皆無だった。だが私は迷いなどしなかった。「1978年」の目標が4年も早くなるのだ。即座に「行きます」と答えた。同じように、私の先輩である女性編集部員のYさんもドイツに行くことになった。
その晩帰宅すると、私は父に話し、飛行機代を貸してもらうことにした。長年の不摂生でぽっこりとお腹が盛り上がったいまとは違い、22歳の私は体重50キロちょっと。切ろうとしても切れる「腹」など持ち合わせていなかったのである。