■現在とかけ離れた1974年の海外出張
ドイツは私にとって特別な国だ。私が行った最初の外国であり、そして私にとって最初のワールドカップの地だからだ。1974年、私はまだ22歳だった。大学を出て出版社に就職し、『サッカー・マガジン』の正式スタッフとなってまだ2か月のことだった。何より、飛行機に乗るのも初めてのことだった。
私は前年、1973年の4月から「アルバイト」という立場で『サッカー・マガジン』での仕事を始めた。その年のはじめにベースボール・マガジン社に簡単な履歴書をもって入社希望を伝えにいくと、1か月ほどして「社長が会うからこい」という連絡があった。池田恒雄社長は豪放な方で、一方的に何か話すと、「ガハハ」と笑って「社長面接」は終わった。
この会社に数多くあった競技ごとの月刊誌のひとつである『サッカー・マガジン』は、私たちサッカー少年の間では聖書のような存在だったが、行ってみると、編集部はわずか数人。アルバイトと言っても、すぐに社員の編集者と変わらない仕事をあてがわれた。
私が就職先として『サッカー・マガジン』を考えたのは、ワールドカップに行くためだった。入社してすぐの1974年西ドイツ大会は無理だろうが、4年後の1978年アルゼンチン大会なら可能性はあると思ったのだ。この雑誌は1970年メキシコ大会に記者1人を送り込んでいた。1973年の時点で、『サッカー・マガジン』の編集チーフを務めていたHさんは、翌年のワールドカップに記者を1人、カメラマンを2人送り込むことにしていた。
簡単な話ではない。会社の規定に「海外出張」などない時代である。日本人が海外旅行をできるようになったのは1965年。第二次大戦後1ドル=360円に固定されていた円はこの1973年2月に変動相場に切り替えられたばかりで、海外に行くために日本の銀行で外貨を用意しようとしても、「持ち出し制限」というものがあり、1人500ドルに限られていた。銀行でドルに両替すると、パスポートの日付と金額が書き込まれるシステムだった。念のため言っておくが、クレジットカードのサービスは日本では1960年代に始まったが、1970年代には一般にはまったく普及していなかった。「すべて現金」の時代だった。