■状況を一変させた「プロ公認」
もちろん、当時は「プロフェッショナルプレーヤー」は認められていなかった。「相手にプロがいる」という告発が相次ぎ、スコットランド出身選手の登録を禁止する動きまで出た。しかしスコットランド出身者に限らず、試合に勝つと選手に報酬が支払われるという形は、すでに多くのクラブで常態化していた。
FAはこうした行為が証明された場合には断固たる態度を取っていたが、1884年、ついに危機的状況を迎える。この年の1月にプロ選手を使っていると告発されたプレストン・ノースエンドのウィリアム・シュデル監督(クラブの会長も兼ねていた)が、堂々とそれを認めたのである。
当然、FAはプレストンをFAカップで失格処分にした。するとシュデルはプレストンと同様に選手たちに報酬を支払っていたクラブ(すべてロンドン以外だった)を集め、FAから出て「ブリティッシュ・フットボール・アソシエーション」をつくることを呼びかけた。分裂の危機に瀕したFAがついに折れ、プロを公認したのが、1885年7月のことだった。
だが、「プロ公認」は、逆にプロを使っていたクラブを窮地に追い込むことになる。選手たちが堂々と報酬を求めるようになり、その交渉でクラブ役員たち(彼ら自身はボランティアだった)は疲弊し尽くすことになる。あるクラブは入場料収入の一部を受け取ることで合意し、あるクラブでは、試合に勝つと2シリング6ペンスを受け取り、負けたときには同額をクラブに戻さなければならないという契約が結ばれた(圧倒的に勝利が多いとの自信があったのだろう)。
選手たちは他のクラブの選手がどのくらい報酬をもらっているかを調べ、クラブとの交渉を優位に進めようとした。そして当然、選手たちは、勝っても負けても、さらには試合がないときにも、決まった俸給を要求するようになる。クラブの役員たちは心安まるひまが無かっただろう。