■第1戦から始まった緊迫
9月26日、ソ連政府はレーニン中央スタジアム(現在のルジニキ・スタジアム)での試合の開催を許可したが、報道陣、すべての記者とカメラマンの取材は認めなかった。ソ連政府がチリの選手を逮捕し、投獄中のチリの社会主義者との交換を迫るのではないかとの懸念もあったが、大きなアクシデントは起きず、試合は0-0で終了した。
だが第2戦はついに幻となった。チリの軍事政権は9月末から全国を飛び回って社会主義者などを逮捕、拷問し、虐殺した。その数は当初72人と発表されたが、現在では犠牲者は4万人を超えたと認定されている。10月22日までに拷問・虐殺が行われた舞台のひとつが、首都サンチャゴの都心部に近い国立競技場だった。11月21日に大陸間プレーオフの第2戦が行われる会場である。
第2戦は、チリの軍事政権にとって国の「正常化」をアピールする絶好のチャンスだった。それだけでなく、憎き共産主義者たち(ソ連)を打ち破る絶好機でもあった。ソ連は中立国での開催を求めたが、チリが拒否、FIFAも認めなかった。