■1人の負傷でパニックに陥ったオフト・ジャパン
もっと時代を遡れば、日本代表史上初めてのプロ監督として1992年にハンス・オフト監督が就任した時には、目標であるアメリカ・ワールドカップ予選開始まで1年ほどしか準備期間がなかったため、就任後最初の活動となったキリンカップに招集された選手がほとんどそのままドーハでの最終予選に臨むこととなった。バックアップの用意もできていなかったオフトの日本代表は、左サイドバック(都並敏史)が負傷したことでパニックに陥ってしまった。
そうした、監督交代のたびに大幅にメンバーを入れ替えてまったく新しくチームを作るという強化方式が変わったのは2010年代に入ってからだった。
2010年の南アフリカ・ワールドカップでは、大会前の準備試合で結果を出せなかった日本代表だったが、大会開幕直前になって岡田武史監督がメンバーを大幅に入れ替えてシステムも変更。この大胆な発想の転換が功を奏してグループリーグを2勝1敗で通過した日本はラウンド16でもパラグアイと引き分けてPK戦負けと、過去最高の成績で大会を終了した。