■国内各地の武士が協力

 13世紀にモンゴル(元)軍が襲来しました。これが、日本では「元寇」または「蒙古襲来」として知られている歴史的な大事件です。ユーラシア大陸に東は中国、西はハンガリー平原あたりまで広がる大帝国を作り上げたモンゴルのクビライ皇帝は、2度にわたって日本上陸を試みました。1度目(文永の役)が1274年、2度目(弘安の役)が1281年のことです。しかし、日本はその元軍を撃退することに成功したのです。

「神風が吹いたので元軍の船が沈んだ」と言われていましたが、それは伝説に近いものです。暴風は実際に吹いて、撤退するモンゴルの船がたくさん沈んだのは事実ですが、鎌倉幕府の御家人や北九州の在地の武士勢力が協力して勇敢に戦ったようです。日本の武士の戦闘能力は、国際的な基準でもかなり高いものがあります。

 また、「元軍」といってもモンゴルの本体ではなく、将兵の大半は属国化された高麗や元によって滅ぼされた(中国南部にあった)南宋の残存兵力が主体だったようで、必ずしも士気が高いわけではなかったようです。クビライ皇帝としては戦闘に勝って日本を占領できればもちろんいいし、戦いに敗れて厄介な(いつ反抗するか分からない)南宋の軍勢が壊滅してしまったら、それはそれで良いことだと考えていたのです。

 それより前の1019年(寛仁3年)にも「刀伊の入寇」という事件があり、「刀伊」と呼ばれた女真族が襲来しましたが、この時も「刀伊」の軍勢は平安京の軍事貴族や九州の豪族の奮戦で撃退されています。そして、「刀伊」の軍勢もやはり対馬、壱岐を荒らした後、博多湾を襲撃しています。

 刀伊にしても、モンゴルにしても「彼らはなんでわざわざ日本軍が陣地を構築して守備を固めている博多湾上陸を試みたのだろう?」という疑問を僕はずっと前から抱いていたのです。

(2)へ続く
PHOTO GALLERY ■【画像】JSL時代の強豪・八幡製鉄の本拠地だった鞘ヶ谷競技場。グラウンドの向こうにモンゴルの侵攻を許さなかった理由が見える
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