■パラグアイの首都から遠隔の地へ

 1999年、日本代表は招待されてコパ・アメリカに出場しました。当時の日本代表監督のフィリップ・トルシエは2002年の日韓ワールドカップに向けて若手主体のチームを作ろうと考えていました。しかし、同年6月から7月にかけて開催されるコパ・アメリカはU-22代表が出場するシドニー・オリンピック予選と日程が重なっていたため、コパ・アメリカにはベテラン選手が招集されていました。

 僕も、6月26日に東京の国立競技場でオリンピック予選のネパール戦を見てからすぐに地球の裏側のアスンシオンでの開幕戦、日本対ペルー戦に駆け付けました。

 ペルーとの初戦(大会の開幕戦)では前半7分にブラジル出身の呂比須ワグナーが先制ゴールを決めて南米の人たちを驚かせましたが、その後、点の取り合いとなって2対3で敗れます。そして、パラグアイとの第2戦では4失点して0対4と完敗してしまいます。

 当時の日本代表には、遠く南米大陸まで遠征して南米の強豪国と戦えるだけの力がなかったということでしょう。

 そして、最終戦は2連敗の日本と1分1敗のボリビアが対戦することになりました。

 開催国のパラグアイと一緒だったA組は、最初の2日間は首都アスンシオンにあるパラグアイ最大のスタジアム、エスタディオ・デフェンソーレス・デル・チャコ(4万2000人収容)で行われたのですが、グループ最終日の日本対ボリビアとパラグアイ対ペルーの2試合はどういうわけか(おそらく、パラグアイ国内の政治的な事情なのでしょう)ペドロ・フアン・カバジェロという遠隔の都市で行われることになっていたのです。

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